節分って 鬼が子どもを 泣かせる日?

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徒然と雑談

こんにゃちは、猫月です😸

年が明ける頃になると
保育園ではそろそろ
「節分」の準備も始まるのではないでしょうか

ムツキ
ムツキ

子どもたちが泣くし
ひどい子は家庭でも夜泣きするし
あまり楽しい行事じゃないのよねー

猫月
猫月

子どもの成長の機会になれば良いけれど
“鬼”で怖がらせるだけでは意味がないね

私自身は、保育園には文化的な伝承の役割もありますから
節分行事を行うことには意義があると考えています
一方で、現在の保育園での節分行事は
本来の行事の意義とはずれているとも感じています

今回は、私が節分担当をした時の事例と
節分行事の意義について
お話をしていきます

ある園で節分の担当になりました

その前年度、節分の反省の中で
「鬼が出てくる必要性はあるか?」
という投げ掛けはしてあったので
行事の準備を進める中で鬼の来ない節分を提案しました

本来、節分は厄=鬼が来ないために豆を撒きます
厄が来てから豆を撒いたって
既に被害に遭っていては意味が無いですからね
浅草寺や成田山の豆撒きで
鬼が出てきた映像なんて見たことないでしょう?

会議の結果はどうなったかというと
「子どもには目に見える形で節分を伝えたい」
という園長の意向で
鬼が登場することになりました

ここで「節分」そのものについてふれておきます

節分は本来、立春、立夏、立秋、立冬の前日を指します
季節の分かれ目なので「節分」なんですね

中でも重要視されるのが立春前の節分です
新しい一年を迎える準備の日です

旧暦では立春が一年の始まりとされ
節分は大晦日と同じ意味を持ちます

不思議なもので
大晦日に厄を払う風習は世界各地にあって
ハロウィンも古代ケルトの大晦日なんですよね

日本での節分も、豆を撒くことで厄を祓い
清らかに新年を迎えることを目的としているのです

さて、節分担当が鬼役となったことで
どんな鬼になるかを行事担当で話し合います

「『ないたあかおに』みたいな寸劇にしちゃおうか」
「声が出せないから、伝わらないんじゃない?」
などなど、二人でヒソヒソ…
私もこうなると本腰を入れますので
全身タイツを購入して
頭からつま先までしっかり鬼としてなりすまします

いよいよ迎えた節分当日
担当はクラスをそっと抜け出して
鬼に扮して各クラスを回ります

例年だとここで
金棒を振り回したり窓や戸を叩いたりして
怖がらせる鬼が登場するのです

ところがどっこい
今年の鬼は“中の人”が違いますからねー

金棒こそ持っているものの
バトントワリングのようにくるくる回します
部屋に入ったら腕を組んで
スキップスキップ♪
お尻フリフリ~♬

鬼が部屋へ入って来たときは
勇んで豆を撒いている子どもたちも
「あれれ?怖い鬼じゃなーい」
鬼とタッチや悪手をして「バイバーイ」です

保育園で鬼を一番怖がっているのは年長5歳児
そりゃそうですよね
過去ずっと怖い鬼と
何度も遭遇している(させられている)のですから

ところが、保育園のあちこちから聞こえてくるのは
「鬼は外ー!」の声と笑い声
鬼が部屋へ入ってくると豆を構えて待っていましたが
青鬼が取り出したのは「ないたあかおに」の紙芝居
表紙の青鬼と自分の顔を交互に指さし
「俺はこの青鬼だよ」とアピールしながら
無言で紙芝居をめくっていきます
相方の赤鬼は、子どもたちの隣に体操座りしてそれを眺めている
子どもたちもそれで察したのか
三方枡を抱えながらも紙芝居を最後まで見ています
紙芝居が終わると、鬼はぺこりと一礼し
子どもたちとタッチをしてから「さようなら」

こうして、その年の豆撒きは終わったのでした

さてさて、豆撒きも終わってほとぼりが冷めた頃にクラスへ戻ると
子どもたちが駆け寄ってきます

「面白い鬼が来たんだよ」
「おしり振ってたの!」
「怖くなかったー」
と口々に報告して笑っている子どもたち

前日には「節分だから保育園に来たくない」と
こぼしていた子も言いましたが
「あんな鬼なら、明日も来て欲しいなー」
だそうです(笑)

私は子どもたちの話に耳を傾けてから
「悪い子なんていないから
 怖い鬼が来なかったんじゃない?」
とだけ答えて、入口にやいかがし(柊鰯)を飾りました

お迎えの時にも
子どもたちは保護者に鬼のことを報告しながら
笑って帰って行きました

そもそも、“鬼”って何でしょうか

一般的なイメージで言えば
日本の悪い妖怪の代表の様なところもありますね

実は、「藤原千方の四鬼」のように人に
使役される鬼もいます
日本で有名な鬼と言えば
酒呑童子や茨木童子がいますが
悪鬼の代表格は彼らでしょうか

仏教でいうと
鬼は閻魔に仕える地獄の獄卒です
要は刑務官ですね
地獄に落ちるほどの大罪人を監視するのですから
それは怖いはずですね

ところで
保育園へ鬼が訪れる意義って何でしょうか?
「地獄の獄卒が、幼児施設に来る」意義です

地獄に落ちるのは仏教の五戒を破った者です
殺生、妄言、倫盗、邪婬、飲酒のいずれかを犯した者が
地獄へ落ちると言われています
鬼に追われるということは
これだけ重罪を犯しているからというわけですね

ん?ちょっと待って
幼児がこの五つの罪を犯すって、ありますかね
保育園に鬼が来るほどの大罪人がいるなんてことが
あり得るのでしょうか

節分の鬼とは“厄”の例えだとは申しました
ただ、鬼の来訪を大人の都合でねじ曲げていないか?
は、よくよく考えてもらいたいなと思います

年中行事は“文化の伝承”が目的のはずですが
そもそも保育士が文化を理解していないのだとしたら
本来の目的に到達するのは甚だ困難でしょう

最後に、私がここまで節分の“鬼”にこだわるのか
そのきっかけについてお話しして締めたいと思います

ある年、節分の鬼が怖いという理由で
ひとりの子がお休みをしました

同僚の保育士はこう言います。
「そんな甘やかしていたら、将来が心配」だと

私は別の視点で捉えていました
たとえ一日であろうと
その子の保育を受ける機会を奪い
その保護者が出勤する権利を奪った
保育士が節分行事の展開を誤ったことで
貴重な時間を失わせてしまった、と

もちろん、最終的な判断の責任は保護者にありますが
そういう判断をせざるを得ないほど
その子の心を追い詰めていた事実を
我々は省みる必要があるでしょう

形にとらわれ、意義を見失っている
そんな節分なら、不要だと考えます

最後までお読みいただき
ありがとうございました

今はそんな保育士はいないと思いますが
「あの子を懲らしめてもらおう」という担任や
「誰か攫って欲しい子はいますか?」という担当が
恐ろしいことに昔はいたんです

不適切な保育の典型例ですが
でも、その名残は完全に無くなったと言えるでしょうか

子どもたちが「怖い」と感じる体験は重要ですが
大人が意図的に「怖がらせる」のは、また違うと思います
“鬼”という存在を使って
子どもを大人の思い通りにしようというならば
それはやはり虐待ですからね

節分という、文化を伝えるという
本来の目的に沿って行事を行うのが
教育者の使命です

節分は本来、厄を祓い
清らかに新年を迎えるために、豆を撒く日です
子どもたちが清々しい気持ちで立春を迎えられるよう
保育士は重々行事の意義を理解した上で
節分に臨みたいですね

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