お子さんの 成長感じる 見つめ方

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応援してます!子育て・育児

子どもは散らかし上手ですね(笑)

お絵描きのクレヨン
ブロックやつみき
おままごとのテーブルや
お人形遊びの床…

子どもは遊ぶのに夢中だと
湧いてくるイメージと同じ分だけ
おもちゃも引っ張り出します

大人からすると
「もう使わないものは片付けてよ…」
と思ってしまいますが

そこでイライラしてしまうと
「片付けなさい」
「片付けたくない!」
のバトルが勃発してしまいます

大人からすると
「片付けないと困るでしょう」
なのですが

子どもからしたら
「遊びたいのに邪魔された」
と思っているでしょうね

さてさて
お互いがイライラせずに
この場を丸く収めるには
どう関わるのが次善の策でしょうか

私の場合でお話しします

例えば
給食の準備をしようとして
子どもたちに片付けをお願いします

子どもが素直に応じてくれたら助かりますが
まぁ、なかなかそうはいきませんね😅

とはいえ片付けをしないと
テーブルが空かないとか
給食を運ぶのに支障があるとか
子ども自身も困ることに繋がるわけです

大人からすれば
「片付けないと困るんだから
 最初から素直に片付けて欲しい」
と思いますよね

そして、毎日のように片付けを促していると
「この子には、素直さが足りない」とか
「片付けの大事さが理解できない」とか
「ちゃんと成長しているの?」と
疑念が湧いてしまうこともあるのです

保護者からもよく聞かれます
「うちの子、ちゃんと片付けできていますか?」って

大人が思っている
「片付けができる」って
どういう状態でしょうか

おそらくですが
自分から元あった場所へすべてを収納できること
願わくば整理整頓された状態で
というのが大人のイメージではないでしょうか

私は子どもと片付けているとき
ひとつでも片付けることができたら
「自分で片付けられるね」と伝えます

え?それって
ほとんど片付けてないでしょう?

と、多くの方は思うのではないでしょうか🤭

私はこう考えています
子どもが使ったおもちゃを
1個でも片付けたら
「0から進歩した」
そういう風に捉えます

全体の何%かはわかりませんけれど
少なくとも数%は片付けに貢献してくれたんです
大人の願いに応えてくれたんです

それはもう「片付けてくれた」
そう思って良いんじゃないでしょうか

100%を期待するから
やり残しがあると
「やってくれない」と感じてしまう

それは減点式の評価です

子どもの成長は
常に「できない」からスタートします

立てない
歩けない
喋れない
食事も自分だけではできない

そこから始まっているんです

片付けも同じだと思います
出すのは簡単だけれど
入れるのは難しいんです

大人だって同じじゃありませんか
出掛けようとクローゼットから服を出して
着るものが決まった頃には
あちらこちらに衣類が置かれている
…畳んで仕舞わなければいけないけれど
ちょっと奮起しないと片付けられませんよね

片付けるって
エネルギーが必要なんですよ

だから
子どもがつみき一個を箱に入れるのも
相当なエネルギーを
使っているはずなんです

そう考えるとね
ひとつでも片付けられたら
「片付け、できたね」って視点で
子どもと向き合っていきたいと思いますね

まずひとつ
その成長を大事にしたいです

「うちの子、好き嫌いが多くて」

「もっと小さな頃は
 好き嫌いなく食べていたんですよ」

保護者とお話ししていると
食事での好き嫌いは
やはり気になるようです

その子の発達にもよりますが
食べ物の好みがあるということは
「分別がつくようになってきた」
とも言えると思うんですよね

素材の風味の違いを
感じるようになってきた

素材の組み合わせによる
味の違いに気付くようになってきた

経験を重ねて
自分の好みがわかるようになってきた

「好き嫌いをする」という
停滞や後退ではなくて

「自分で感じて
 判断できるようになってきた」

私はそう捉えています
保護者にもその旨をお話しすると
安心されることが多いですね

食べ物の好き嫌いで大事なのは
「好き」と「嫌い」の間にある
「食べられる」食材を
どうやって増やすかだと思います

「これ、食べたくない」
そういう子どもがいた時に
私はどう向き合うかというと

「そう、食べたくないんだー」
と受け止めつつ
「で、どれが食べたくないの?」
と尋ねます

例えば、八宝菜だとすると
豚肉、モヤシ、ニンジン、キノコなどが
食材として入っています

肉が苦手な子
モヤシが苦手な子
ニンジンが苦手な子
キノコ類が苦手な子
それぞれいるわけで
「八宝菜を食べたくない」と言っても
全部が食べられないわけじゃないんです

だから
😸どれが食べたくないの?
とか
😸これをどけたら食べられる?
とか確認しながら
子どもが「食べられる」状態にしていきます

そうすると
「八宝菜は嫌い」だったのが
「八宝菜のモヤシが嫌い」と
子どもも認識が変わってきます

「モヤシをどけた
 八宝菜は食べられる」
と子どもが自覚すれば
好き嫌いは減るんです

トマト味は好きだけれど
生のトマトの食感が苦手な子もいるし

ツナサラダは好きだけれど
グリルした魚は苦手な子もいる

たまに耳にするのが
「フライドポテトは食べるんだから
 みそ汁のジャガイモも食べられる!」
という大人の声ですね

調理法が違えば
風味も食感も違ってくるのですから
それを「同じ食べ物」と言ってしまうのは
いささか乱暴な気がします

私は、カボチャも小豆も好きですが
“いとこ煮”は正直苦手です…
粒の納豆は好きですが
ひきわり納豆は苦手なんです
そういう、組み合わせや手の加え方で
「馴染まない」と感じるものもあるんですよ

子どもは成長と共に
そういった”機微”がわかるようになってきます

無条件に「何でも食べられる」って
逆に怖い気もするんですよね…

腐ってても、異物が入っていても
気付かずに食べてしまうかも知れない
そういう可能性だってあるでしょう?

子どもの食べ物の好みは
「好き嫌いしてしまう」よりも
「違いが分かるようになってきた」
味覚や感覚の成長と捉えています

子どもが寝る場面で
保育園だと午睡の時間ですが
「布団に入っても眠らない…」
という悩みはよく耳にします

すやすやと 子どもが眠る 寝かしつけ

私は午睡の場面で
子どもが自分から布団へ入るようになった
それだけで成長だなと思っています

「でも、寝ないんですよ?💦」
という思いもかります

ただ、大人だって
布団に入ってからいろいろやりません?

本を読んだり
スマホを確認したり
音楽を聴きながら眠ったり

布団に入って
すぐにスヤァ…とは眠れないと思います

私が大事にしたいのは
「眠りたい」という意思を持って
子どもが布団に入った姿です
眠る気がなかったら
そもそも布団へ来ないと思うんです

そこをすぐに寝入らないからと
「寝る気がない💢」としてしまうと
安心して眠れる環境とは程遠くなってしまいます

私の勤める保育園では
子どもの成長項目に
【安心して眠れる】とあります

睡眠に重要なのは“安心”と謳っているんです

ならば
できる限り安心できるよう
子どもを見守っていきたいのです

子どもが布団に入ったなら
「この子は眠る気があるんだな」と思います
寝付けなくても
自分の布団の中でモゾモゾしている分には
それは問題ないと見守ります

他の子の睡眠を妨げるようでしたら
そこには対応が必要ですけれど
「今日“は”、なかなか眠れない?」
と傍につきながら
周囲の寝入りそうな子の援助をしていきます

入眠までに時間が掛かったとしても
布団に自分から入った
自分の布団に収まって過ごしている
大人が傍につくまで待っている
それだけで十分だと思うのです

大人としては
「一人ですんなり眠って欲しい」
と望んでしまいがちですが

【安心して眠れる】
その環境を保障するのは
大人の役目です

安心できる環境の中には
大人の存在も含まれます
子どもが安心して眠れるよう
どう関わっていくのか
どんな態度で傍にいるのか

まずは、大人自身が
振り返ることが大事だと思っています

子ども同士が過ごしていれば
ケンカが起こるのは自然なことです

大人はケンカをしていないつもりで
当人のいないところで
いかに許せないかを周囲にぼやいているんですから
結局は子どもと同じです

陰口を叩いている分
子どものように割り切れないのですから
大人の方が質が悪いかも知れませんね(笑)

子ども同士がケンカをしたとして
それもまた成長のひとつの姿です

自分の気持ちを表現できるようになった
気持ちを相手にぶつけられるようになった
自分の気持ちを言葉にできるようになった

もちろん、手や足や口が出れば止めますが
言葉をぶつけ合ったり
少々のボディコンタクトがあったりしても
それはコミュニケーションの範囲です

そもそもなぜケンカをするのかといえば
「自分の身を守るため」です
その“自分の身”の範囲が
自分の身体から
影響しているものにまで広がってきます

使っているおもちゃ
読んでいる絵本
座っていた椅子
遊んでいる友だち

実際には誰かがさわったくらいのことで
危機というほどではないのですけれど

本人からすると
”自分の心”に侵入された
くらいの感覚はあるわけです

それを自分で守ろうとするのは
自立へ向けた一歩でもあります

とはいえ
些細なことでケンカをしていては
大人はヒヤヒヤしますよね💦

勘違いから引っ掻きや噛みつきが起こっては
集団で生活するのは困難になってしまいます

ケンカをした時に
大人が止めるのは簡単なんですけれど
それは物理的にお互いを引き離す
ってことにとどまります

ケンカでの気持ちのすれ違いを
納得させるというのは
それはそれは難しい話です

だってそこは、個人の心の話ですから

子ども同士がケンカをして
手も口も出さない範疇でしたら
そこはもう当事者に委ねるのが一番だと思います

気持ちのぶつかり合いを経験して
お互いのズレを認知したり
妥協したり
折り合ったり
そういうことを覚えていくのも
コミュニケーションでは大事な成長です

ただ、当事者だけでの解決が難しい場合もあります

例えば、おもちゃの取り合い
力づくで相手から手に入れた子

欲しいものが手に入って
喜んで遊び始めるかといえば
その表情はどうにも浮かない…

この子はもう
強引に欲しいものを手に入れても
それでは楽しくないことに気付いているんですね

そこはやっぱり
ひとつの成長を遂げているのです

そこで私はどうするかというと
「何だか楽しくなさそうだね」
と共感します

その子は
「ん」とか「………」とか
自分の気持ちと向き合っている様子

欲しいものを得ることよりも
友だちとの関係性を考えられるようになったら
それもヒトとしての成長ですよね
社会性が伸びているということですから

そんな様子を見ながら
「どうしたら良いかねぇ」
と私が空に向かっていうと

「…ごめん、っていう」
なんてことを呟いたりします

「そっかぁ、ごめんするんだ」
と同意しつつ
「言いづらかったら、一緒にいこうか?」
と助け船を提案すると

「自分で言う」とか
「ぅん……」と襟を掴んできたりとか
そんな感じで子どもなりに解決しようとします

他者の言葉を介してとはいえ
自分の気持ちに折り合いがつけられるのも
情緒面での成長を感じます

「それなら最初からケンカしないの」
なんて思うのは野暮というものです

気持ちのぶつかり合いや
ちょっとしたすれ違いを体験しながら

「ここは自分が引こう」とか
「ここは譲れない」とか
「ちょっとやり過ぎたかも」とか

心の機微を自覚して
セルフコントロールが
できるようになっていくんです

ケンカのことを
“トラブル”と表現することがありますが
【trouble】の本来の意味は
「面倒を掛ける」「困らせる」「乱す」
といったことですから
ちょっと違いますよね

ケンカはあくまでケンカ
お互いの気持ちが向き合った
双方向的なものです

コミュニケーションの一環として
子ども同士が傷つけ合うことは避けつつも
成長の大事な機会であることも
大人は理解していたいですね

子どもと買い物へ行くと
「これ買ってー」というおねだり
ありますよね😓

週末の買い出しへ行くと
どこのスーパーでも見掛ける姿です

まぁ正直にいって
「いい加減にして…😫」
って思いますよね

でも、あのエネルギーって
なかなかすごいと思いません?

怒って泣いて
時には床にのたうち回って
自分の主張を通そうとする

その意志の強さたるや(笑)

あ、笑い事じゃないか😅

ところで
あれだけねだって買ってもらったもの
あんまり執着しないと思いません?

ヨシタケシンスケさんの
【あんなにあんなに】(ポプラ社)でも
そんな一幕がありますね

買い物をしているとき
子どもが欲がるものに付き合っていると
実は吟味していることに気付きます

手前味噌ですが

うちの子が2歳のときのことです
おもちゃコーナーで
ミニカーやら光るおもちゃに興味を示しました

特に急いでいるでもなかったので
試供品を自由にさわらせていたんですね

結構じっくりとふれていたので
「それ、買おうか?」って聞いたんです
それだけ気に入ったものであれば
まぁひとつくらい買っても良いかな、と

私の提案にちょっと考えた後
こう答えが返ってきました
「いらない」って

2歳でも
欲しかったものを
さわって、試して
熟慮すれば
その価値を測れるんです

「それは猫月さんのとこだけでしょ」
って思われるかも知れませんが

先日、友人親子と買い物をしていました
その子は1歳なので
私が抱っこしながら店内を回っていたんですね

気になったものに手を伸ばすので
「これが欲しいの?」と
本人が手にできるようにしていました

実際に買うかどうかはさておき
3品くらいを両手に抱えて
抱っこされながら眺めているんです

さて、いよいよ会計という頃合いになって
「どうしようか?」と声を掛けると
手にしていた品を
元の棚へ戻そうとします

手にした時と同じように
棚へ戻すのを手伝うと
空いた両手をこちらへ向けて
笑っています

まだ喋れない1歳児ですが
「これを見てみたい」とか
「これはもういらない」とか
態度や仕草で知らせてくれるんです

そして、その意思に応えていると
それだけで満足するみたいです

おねだりというと
“わがまま”と捉えがちかもしれません

「買って」とか「欲しい」とか
言葉ではそう言うんですけど

でも実際の所は
子どもなりの主張であったり
体験したいという思いであったり
吟味したいだけだったりするんじゃないでしょうか

もちろん、限られた時間の中で
どれだけその思いに応えられるかは
なかなか難しいこともあると思うんですけれど

子どもの中にある
動機に注目できると
泣いて怒って地団駄踏んで
という後味の悪いことにはならないんじゃないかな
なんて思うのです

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