【何だろう?“主体性”って】

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【何だろう?“主体性”って】サムネイル 時には昔の話をしようか

こんにゃちは🐈、猫月だんくるおすてうすです。

今回は、タイトルの通りです
「主体性って、なんぞや?」😄💧

『子どもの“主体性”を大事にしましょう』と聞くと、
「それって、ワガママに育たない?😨」
と受け止めがちではないでしょうか
でも、“主体性”ってどんなことか理解されていますか

先日、保育士同士で
「主体性ってなんだろう?」
というトークセッションがありました
保育士の中でさえ、
明確にこれが“主体性だ!”と言える
概念ができあがっているわけではないのが実際です

ところで、現在の保育・教育界隈は、
その指針として「主体的・対話的で深い学び」を掲げられています

「いやー、指針とか言われてもよく分からないし…」

「学校の先生たちが意識することでしょ?」

って思うのも、分からなくもありません

でも、これって大事なことなんですよ

何故なら、これは現代の日本社会での課題から浮かび上がってきた命題なのです。

A.I.技術が経済や社会に深く進出してくるのは、もう目の前です
2030~2040代には、47%の職種がA.I.に取って代わられると予測されています
そして、A.I.に代替されないまででも、影響を受ける業種は更に多数に及びます

そして、今の子どもたちが成人になる時期が、このA.I.による時代変節のまっただ中

今後の子どもたちの育ち、発達を取り巻く環境の中で、至上命題に置かれているので、
これは保育士や教育者だけでなく、
保護者や社会にとっても“主体性”
大事なフレーズになっているわけです

今回は、私の考える“主体性”についてお話ししていきます

“主体性”と“自由”

保育で「主体性を尊重する」と口にすると、
「子どもの自由にやらせる」と誤解される方がいらっしゃいます

そもそも“自由”を勘違いされている方も多いですが、
自由というのは、身勝手が許されるということとは違います

自由とは、
自分で行動を選択し、その結果の責任を自分で引き受ける
ということです

例えば、
必要な物と不要な物とを精査して出費すればお金は貯まるでしょうし、
散財すればその後の生活に支障が出ます
生活リズムを整えていれば健康に過ごせるでしょうし、
不規則な生活をしていれば体調の安定は難しいでしょう

それらの結果から逃れようとしても、
自分の選択から始まっていることなので、
誰も責任を肩代わりはできません

それは、子どもも同じです
自由が保障された環境というのは、
子どもが自身で責任を取る権利を保障された環境です

言葉遊びみたいになりますが、
主体性を尊重することは、子どもが自由に自分の行動を決定できる環境を整えること
と言えます👍
それは、子どもが身勝手に振る舞うのではなく、
自分の責任を自分で負うことを保障するということです

乳児は 肌を離すな
幼児は 肌を離して 手を離すな
少年は 手を離して 目を離すな
青年は 目を離して 心を離すな

ネイティブアメリカンの子育ての教え

子育てでは“見守る”ことが大事、と言われますが
「見守る」できていますか?
ちょっと、振り返ってみてください🤗

なぜ今、“主体的・対話的”を重視するのか

以下は、平成30年6月に行われた第62回東京都保育研究大会での
汐見稔幸教授(東京大学名誉教授・日本保育学会会長)による講演を拝聴して、
私がまとめた要旨です

“21世紀社会の特徴”は、
本格的メディア革命によって、
人間がすることのほとんどを機械が行うようになる
その結果、人間は三つの物を使わなくなる
①身体
②自分で考えること
③人と直接関わること

①身体を使わないと、楽にはなる
 しかし、運動能力や体力は衰える
 自分で作れる物が激減し、購入することになる
 作る機会が減ると、“実現する”という楽しみが減衰する
 それは、世界に対する能動的意欲=生きる意欲が減ることになる

②分からないことは、
 情報端末で調べるようになるので、
 自分で考えることが苦手になる
 情報端末へ依存的になり、情報の精査や判断をしなくなる
 新たな権威主義的パースナリティ(ネオナチ、アメリカ第一主義など)が登場してくる
 自分で考えることが苦手な人類に、
 創造性という力はあるだろうか。

③情報端末で生活が完結すると、
 人と関わることが苦手になる
 人間の行為の中で、
 最も難しいのが“対人的行為”である
 交際、育児、性行為を含めた、
 関係的行為を忌避する人が増えていく

第62回東京都保育研究大会 汐見稔幸教授講話より

どうにも、21世紀が明るい未来という絵を思い描くのは、難しそうです。

汐見先生は、社会で生きていくために必要な力を、こうまとめられています。

そもそも、社会で生きていくために必要な力とは、
みんなで議論をして、適切な“解”を、粘り強く、諦めずに、導く
そして、決めたこと、分かったことは、実践する。

意見とは、独善的であってはならない
他者をくぐることが必要
「真理を見つけるには、他者が要る」

つまり、自身の考えや思いという物を表現する力と、
それを自分以外の誰かと交わらせ
お互いの意見をブラッシュアップできる力が、
必要だと仰っています

だから、「主体的・対話的で深い学び」
現代の保育・教育における指針に置かれているのです

“主体性”とは

ここでは、私の個人的な“主体性”への考えを述べさせていただきます。

ヒト=ホモ・サピエンスは不完全な動物です
ひとりでは、衣食住を整えられませんし、
個体差が著しく、種として生き延びるためには不安定な生物です
ですから、ヒトは集団で生活することを選び、
お互いの長所で補い合い、発展を遂げてきました

「子どもの中で、子どもは育つ」

『プロフェッショナル〜仕事の流儀〜』(NHK)第298回より

インクルーシブ保育の第一人者である、
野島千恵子さん(社会福祉法人 路交館)の言葉です。

子どもの主体性を重んじるということは、
子どもを社会の一員として尊重するということです

保育園や学校という環境は、
まさに子どもたちが形成する社会です
ひとりひとりがお互いの意見を主張し合い
主体性を発揮し
その関わりを通して自分たちの社会を運営していく
「子どもの中で、子どもは育つ」が、
そこでは日々の営みとして行われているはずです

“主体性”が発揮できるということは、
民主的であるということでもあります
ひとりひとりの考えの違い、
価値観の違い、
文化の違いなどを寄せ合って、
ひとりひとりが尊重される
それが民主的な社会です。

多数決は、民主的ではありませんよ?
選挙や議会のルールと民主主義を混同されている方が見受けられますが
マジョリティとマイノリティが浮かび上がった所で
「では、“我々は”どうするか?」と対話するが民主主義です
自分にはない発想を受け入れていくからこそ
社会の発展があるのですから

ここで私が思うのは、
「“主体性”を保障する」という教育者の考え方自体が、
子どもと大人を対等の存在として認めているのか?
ということです

そこには、大人が子どもに施すという、
タテの関係が存在しているように、
私は感じるのです

では、猫月だんくるおすてうすは
保育者として十分に主体性を発揮できる保育を実践できているのかと言えば…
それは毎日振り返りをくり返しているような様なのですが😅

ただ、目指すのは、
子どもが自分たちの社会の中で自己を発揮し、
その社会の中で必要な行動基準を
みんなと考える、選択する、手を取り合う、
ということが発揮できている、
そういう環境を整えることです。

私の考える子どもの主体性とは、
自ら民主的に振る舞えるということです

子どもが“主体性”を発揮するには

まずは、自分とその周囲にいる大人との“コミュニティ”=安心できる環境の中で、
十分に自分の思いや欲求が認められることが大事です

これは、その子自身が“自分の事実”を、ありのままに認識できるよう、
周囲の大人が関わっていくことだと思います
友だちと自分を優劣で見るのではない
自分の得意なこと、苦手なこと
手助けできること、手助けしてもらいたいこと
それらを、自分が所属するコミュニティの中で発揮する
簡単に言うと、「自分は自分でいいんだ」を存分に感じられることですね

自分の好きな物・苦手な物、
得意なこと・不得意なこと、
助けになれる場面・助けられる場面などを、
安心できる環境の中で、十分に自分を知ることができると、
子どもの世界はどんどんと広がっていきます

子どもの世界が広がっていくと、
見知らぬ誰かと出会います
それは、親戚であったり、
近所の歳の近い子であったり、
保育園・幼稚園であったり
これまでは大人との関係の中で培ってきた物を、
今度は子ども同士という関わりの中で、
自分を発揮していくのです

そして、子ども同士の中での関わりから、新たな社会が生まれます

それらの社会の中では、自分の要求が通じない場面が多々起こります
それと同時に、
自分が試行錯誤して相手に認められると、とても快い経験も得ることでしょう

子ども同士の社会の中で、
自分が発揮できることを理解し、
また試行錯誤を重ねる中で、
相手と自分の違いが分かってくる
「自分とこの子は、考え方が違うんだ」
それを認めた上で、
「じゃぁ、どうしようか?」を選べるようになる。

この「どうしようか」が、主体性だと、私は考えます

いくら自分の意に添って行動したとして、
それが周囲から疎まれる行動であるならば、
どうでしょう?
その行動を選び続けることは、
その子にとって利のあることでしょうか

子ども同士がぶつかり合うと、
周囲の大人はどうしても介入しがちです
“仲介”と表しつつも、
その実は大人が結果を誘導している場面が多々見受けられます

穏便に済ませたいのは、大人の願望です
当事者が納得した結論かと言えば、それはかなり疑わしい
“「かして」「いいよ」問題”に潜むのは(潜んでないけど)、
当事者以外の価値観で関わりを決している点です

いじめの手打ちもそうですね
実際は何も解決していないのに、
表面上は「解決したことにしたい」、
大人の欲の現れです
いじめを一朝一夕に解決しようとする姿勢にこそ、
教育の課題が明確に見て取れます

話を本筋に戻します
子ども同士の主体性のぶつかり合いを仲介するのであれば、
それはやはり事実の確認に尽きます
Aちゃんの事実とBちゃんの事実、
それを二人に確認し、どこに食い違いがあったのかを明確にする
その上で「どうしようか?」は、当人たちに委ねます
どうしても許せないというのであれば、
それはもう二人は離れることが最善でしょう

主体性を発揮するのは、個人だけではないのです
“わたし”が発揮する主体性もあれば、
“わたしたち”が発揮する主体性もあるのです

子どもの主体性は、
大人が“発揮させる”ものではなく、
大人はただ”尊重する”ものである
そして、主体性が発揮できる環境を保障する
私は、そう考えます

大人は主体性を発揮できているか

これ、一番の問題だと思います
大人は自身の主体性を振り返っているか?です

自分の主体性を見つめていない人が、
子どもの主体性を尊重できるのか

自分の人生に躓きがあった時に、
それを誰かに責任転嫁していないか

例え自分が不遇の場に在ったとして、
そこに居続けることを選んでいるのは、
他ならぬ自分です
その場を選んだ、
選び続けているのは、
自分です

私は「自己責任」という言葉が好きではありません
ただそれは、本来の「責任」とかけ離れた誤用が続いているからであって、
やはり人生の責任は自分にしか負えない物です

重苦しいと感じられる方もいらっしゃると思いますが、

どうせ自分の人生の責任は、自分に圧し掛かってくるのです。

「今の自分は、主体性を発揮できているだろうか?」

そして、「これからどうするか?」
を考えても、損は無いと思います
子どもの主体性を考える
そのためにも、
大人の主体性を考える

哲学的な問い掛けになってしまいますが、
せっかく“主体性”を考える契機を掴んだあなたであれば、自分を見つめ直すこともできると思います

最後までお読みいただき、ありがとうございます

汐見教授は、講演の中でこうも仰っていました
「これからの時代は、“正解の無い問題”の答えを探す時代だ」と
そのためには、
「対話をしながら、より適切と思われる選択を繰り返していくこと」だと
歩を進めながらも、適宜に状況を観察し、必要に応じて軌道修正をする
リーダーも必要だけれど、それを補佐する役割も重要だと
トップダウンのチームでは、こうはいきませんね
リーダーに向いている人もいれば、サポートに向いている人もいる
そういう「自分の持ち味」に気づけるよう、
また自分の持ち味を大事にできるよう
幼児期の大人との関わりが重要なのです
成果が見えるのは、子どもが成人してからなんですけどねー(笑)

なので、私は「保育士は子どもたちの20年後を見据える仕事」だと思ってます✌️

子どもの“主体性”
ちょっと考えていただけたなら、
嬉しく思います😄

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