「叱ってはいけない」は苦しいよね、って話

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応援してます!子育て・育児

こんにゃちは、猫月です😺

あなたは
「叱らない子育て」という言葉を
耳にしたことがあるでしょうか👂

“叱る”って、ネガティブな印象がありますよね😩
それが子ども相手でも、後輩相手でも

「叱ってはいけない」
そう思いながら子どもと関わっている
保育者も多いのかも知れません

私も「叱らないし、褒めない」と
機会があるとお伝えしています

ただね?

「叱ってはいけない」って
結構な負担だと思うんですよ

子どもを注意した時に
「あぁ…叱っちゃったぁ😣」
「こんなつもりじゃないのに…」
って落ち込みませんか

私だって、☝️のように言っておきながら
やっぱり子どもを叱る場面があります

もちろん反省はします
ただ、その時の反省は
子どもを叱った自分よりも
そういう行動をすることになってしまった
環境設定を振り返るようにしています

子どもは、子どもの中で育つ

それが保育の根っこだと
私は考えています

そのためには
子どもが自分で判断し
自分で行動できることが大事です

目指したいのは
「自分からやる子」です

子どもが自分から行動できるように
「叱らない」よりも
「𠮟らないで済む」を目指す
そういう子どもとの関わり方についてお話しします

それではさっそく始めましょう♪

大人の立場で子ども達を見ていると
「こうなって欲しい」とか
「これができるように」とか
今後の姿を見通すことがあります

ただそれらは、大人の願いであって
子ども自身の意欲とは違うことも多いです

例えば、片付けの習慣

大人からすれば
使った物は片づけられるようになって欲しい
そう願うのでしょうが

子ども自身からすれば
「まだ使っている」と
「もう使い終わった」の
認識自体が曖昧です

子どもの姿を見ていると気付くと思いますが
ブロックで遊んでいた子が
次の瞬間にはままごとにいる
まったく別の場所で違う遊びをしていることがある

これは、大人からしたら
「ブロック遊びをやめて」
「ままごとで遊び始めた」
と認識すると思います

でも、子ども自身からすると
「ブロックで車を作った」
「車で何か運びたい」
「食事を作ってUverごっこをしよう」
そう考えたのかも知れません

「片付け」というのは
見た目を整えるということではなく
必要かどうかを判断するということです

子どもに片付けを促す際に大切にしたいのは
「楽しそうに遊んでいるね」
「ところで、遊びに必要なものはどれ?」
「これはもう使わないんだね?」
という共感と確認です

子どもの楽しさに共感し
それを維持する玩具を判断してもらい
「もう使わない」を明確にします

「教えてくれて、ありがとう」
判断できたことを、まず認める

その上で
「使わない物はどうしようか?」と促します

自分で片付けてくれたらめっけもん✨
「やって」とお願いできるのも大事な力💪🏻
子どもが片付けなかったとしたら?
大人が片付けて「スッキリしたね」でハイ終わり🤗

結果として、目的が達成できたなら
子どもがやっても大人がやっても良いんです

大人が片付けという動作を示して
「スッキリしたね」と喜んで見せれば
子どもは真似をしたがるものです

誰かの役に立ちたいのは
ヒトの本能ですからね

これは、片付け以外の習慣でも同じことです

子どもができることを、まず認める
それで助かっていることを伝える
「やってくれてありがとう」
「伝えてくれてありがとう」
「答えてくれてありがとう」

「やりなさい」
「できるでしょ」
そう伝えるよりも
お互いに気持ちよく過ごせると思うのですが
いかがでしょうか?

子どもを叱りたくなる時というのは
たいがいは、大人の想定通りにならない時です

部屋の中で走り回る
公共の場で大声を出す
大切なものを雑に扱う
などなど…

でも、これって子どもの姿として
特別におかしなものですか?

興奮して身体の制御が利かない
自分の思いを相手に伝えたい
物の価値がまだわからない
丁寧に扱えるほどの筋力がない

子どもの目線で考えれば
どれもが自然な姿です

大人がこれらをやったらおかしいのは
身体も精神も十分に育っているからです
時と場所と状況が理解できるからです

大人と同じ事を子どもに求めるって
それこそ大人な対応なんですかね🤔

子どもは何もかもが大人より拙いです
身体も小さいし
経験も少ないし
自分を律するなんて難しい

それでも、彼らは傍若無人なわけではありません

周囲の役に立ちたい
これがヒトの本能です

何かしらで大人の役に立とうとしている
大事なのは、その努力に目を向けることです

部屋を走り回っていたとしても
止まろうとしたことに注目する

大声を出していたとしても
話を聞いてくれたことに注目する

物を雑に扱ったとしても
扱い方を知ろうとしたことに注目する

今は出来ていないことでも
一歩を進もうとしているはずです

次に同じような姿があっても
1㎝は前進しているかも知れない
いや、進んでいるはず!

子どもの行動が99%No😰だと感じても
残りの1%のOK🥰に注目する

ヒトは注目された行動を強化しますから
大人のOKのくり返しが
1%から徐々に増やしていくのです

【100マス計算】という学習方法があります
横に10個、縦に10個の数字があり
10×10の計100マスの計算をするものです
毎回同じものを計算するのが効果的なんですって
同じ計算でも
「もっと正確に」「もっと早く」
そう思うのがヒトの性質です

子どもでも大人でも
自分の行動を注目されるのは
快の感情を得られます
だから、できて当たり前の行動でも
注目して認めることが大事なんです

「やろうとしたね」
「一歩進んだね」
その言葉が、子どもの出来るを増やしていきますし
好ましくない行動を減らします

「叱らないで済む」ことに繋がっていくのです

私が子どもの姿を見るときは
子どもの“動機”に注目します

極端な例になりますが
友だちを叩く、蹴るなどの行動があった時
「乱暴な子」という判断は避けています

叩く、蹴る、噛むなどは
どれも好ましくない行動ですが
「なぜ、その行動を選んだのか」
重要なのは、その動機の方です

行動というのは、道具なんです
その場での目的があって
効率的な道具(行動)を選択します

子どもは持っている道具が少ないんです
持っている道具で対応しなければならないので
「叩く」「蹴る」「噛む」しかない子は
その中から行動を選ぶしかありません

では、大人はどう関わるかというと
子どもの道具を増やすことです
そして、その効率性を知らせることです

ところで、
「叩く」「蹴る」「噛む」などの行動は
どんな場面で見られるでしょうか

大人からすると「攻撃的」に感じますが
その実際は「防衛」のためが多いです

おもちゃを取られそうになったとか
大人を占有されていたとか
眠い時に触られたとか

子どもからすると
「自分の安心が脅かされた」から
防衛が動機であることが多いのです

その子からすれば不安である状況下で
さらに大人から叱られたら?

取り付く島がないですよね

子どもが攻撃的な姿を見せた時は
まず、その動機を探ります
その動機に共感した上で
「こうした方が良いね」と代替策を伝えます

なかなか理解されませんが
「𠮟るのは甘やかし」ということがあります

子どもがおもちゃの取り合いなどで相手を噛んだ
大人はその行動をきつく𠮟るのですが
「次は”貸して”って言おうね」と締めくくって
その子の欲しかったおもちゃを与えるのです

これ、子どもからしたらどうでしょう?

相手を噛む+叱られる⇒欲しいものが手に入る

こういう経験になります
大人は厳しく接しているつもりでも
実は子どもを甘やかしているのです
そして、望ましくない行動を強化しています

子ども同士のケンカでも同様の場面があります
自分たちでは解決できない状況も
殴り合いをすれば大人に叱られれば終わりになる
暴力をふるうことが
最も効率的な手段になるのです

くり返しますが
「𠮟るのは甘やかし」な状況が多くあるのです

私だったらどうするか
噛んだ子、叩いた子を傍に
傷んだ子に注目します
暴力では欲しいものは手に入らないし
大人の注目も失う環境に置くのです

心理学では、好子消失・嫌子出現と呼ぶそうです
好子は快の刺激
嫌子は不快の刺激ですね

「叩く」「蹴る」「噛む」などを止めたいのであれば
その行動はデメリットだと学んでもらう必要があります
それと同時に、
「請願」「交渉」「譲歩」といった行動が
自分にとってメリットがあると学んでもらうのです

子どもの動機は大人が受容しつつ
適切な行動を学んでもらう
「行動よりも動機に注目する」のは
適切な道具を獲得してもらうためなのです

これは自戒も込めてですが…

大人の願う子どもの姿って
本当にできた方が良いんですかね?

例えば
「友だちと遊ぶ」
「仲良くする」
「思い遣る」

一見するとどれもできた方が良さそうですが―

ひとり遊びだって大事な時間ですし
大人でも個人で事業を起こす人もいますよね

仲良くすると言っても
本音を隠して
気の置けない関係では元も子もない

思い遣るのだって
相手の本心なんて誰もわからないですよね

工藤勇一校長も仰っていましたが
自分のして欲しいことが
相手のして欲しい事とは限らない
相手の嫌なことを想像しようにも
自分の嫌なこととは違う方が多い

文字の読み書きだって
もちろんできるに越したことはないんですけれど
ディスレクシア(識字困難)の子に
「読む、書くができる方が良い」というのは
むしろ生活に苦しさを招きます

食べ物の好き嫌いなんかもそうですね
子どもと大人の味覚発達は違うのに
大人の理想を押し付けられても
食べられない物は食べられない
感じ方が違うのですから

大人の言う「できた方が良い」は
本当に子どもの立場でもそうなのでしょうか?

私は運動音痴なので
跳び箱、鉄棒、縄跳びなど
すべてが苦手でした
むしろ苦痛の域です

練習したってできないのに
「できないのは本気でやってないから」
そう言われ続けてきましたから

学習は苦手ではなかったですが
「本気で頑張れば、もっと伸びる」
という大人の期待は
私には荷が重たかったものです

精一杯努力したって
難しいものは、難しいのです

それを大人の物差しで
「できた方が良い」
「頑張ればできる」
「努力が足りない」
というのはいかがなものでしょう

「できた方が良い」を基準にするなら
大人だって苦しくなりませんか?

「自炊ができた方が良い」
「学歴は高い方が良い」
「空気が読める方が良い」

今回の記事でいえば
「子どもは叱らないのが良い」

ソーシャルメディアは
“べき”、“ねばならない”論があふれていますが
それって、楽しいですか?
むしろ、読んでいるだけで
息が詰まるような想いになりませんか

私は、保育も子育ても
ゼネラリストが理想だと考えていますが
一方で60点で十分だとも思っています

広ーく、浅ーく
子どもといるときに
「あれ?これどっかで…」
というフックがあるくらいの感じです

詳細は後で良いけれど
「何か、聞いたことあるかも」くらいの
取り掛かりを持っている
それが重要だと思っています

だから、子ども達の関わりも
「できる」よりも
「いつか興味を持つかも」
という緩~いスタンスでいれば
いいんじゃないでしょうか

ということで
「𠮟ってはいけない」について
私の思うままにお話してきました

子どもと大人の違いは
体格と経験値だけ、という話もあります

大人が何でも知っているかというと
実のところ、ほとんど知らないに等しい
そうでしょう?
医療も法律も保育・教育も
専門家に頼るじゃないですか
【餅は餅屋】ってことですよ👍

「𠮟る」の意味は踏まえつつ
子どもの育ちにとって何が大事なのか
それを踏まえた上で
コミュニケーションを取っていきたいですね

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