こんにゃちは、猫月です😸
“自信”ありますか?
私はありません🤣🤣🤣
保育にしろ育児にしろ
自信を持って子どもと関わるなんてできません
勉強などと違って
確実性なんて無いですからね
自分のことをいくら信じたって
子ども達にとっては関係のないことです
👩🏻「自信がなかったら、信頼されないのでは?」
それはどうでしょうかね
自分が消費者の立場で考えた時
鉄道は、運転手の自信で信頼しますか?
銀行は、銀行員の自信で選択していますか?
病院は、自信のある医師だから受診しますか?
実のところ、個人の自信は無関係のように思えます
それでも、働き手としては
自信を持って仕事に臨みたいかもしれません
私も、ずっとそう思ってきました
でもね、私の自信なんて
仕事の質を保証しないんですよ🤭
今回は“自信”についてお話しします
・“自信”って何?
・子育て&保育の主役は子ども
・“誰でもできる”ことに価値がある
・仕事は“属人性”を減らしたい
・「私のせいじゃないし」🤪
最後まで読んでいただけたら嬉しいです😄
総合電子書籍ストア【楽天Kobo】“自信”って何?
【自信】
[名](スル)自分で自分の能力や価値などを信じること
weblio辞書
自分の考え方や行動が正しいと信じて疑わないこと
「—を失う」「—満々」
辞書で“自信”を調べると
☝️のような意味になるのですが
「信」の字は“まこと”の意味があります
「自ずのまことを知る」ということが
「自信がある」ということでもあるんですね
自分のまことということを考えると
得意なこと
できること
好きなこと
これらばかりが自信ではないようです
苦手なこと
できないこと
嫌いなこと
それらも含めて
等身大の自分を知ることが
自信なのでしょう
子育て&保育の主役は子ども
さて、保育の話に戻りましょう
保育の主役は誰か?と聞かれたら
子ども達だと答えます
当たり前のような気もしますけれど
私が自信を持つのをやめた理由のひとつです
どんなに保育士が自信を持ったところで
保育を形作るのは子ども達なんです
保育で重要なのは
子ども達一人一人が
好奇心や意欲を十分に発揮して
成長の実感を得ていくことです
ちょっとドライな言い方になりますが
保育士に自信があるかどうかは
子ども達には関係ないのです
子ども達を取り巻く環境として
そこには保育士もいます
相応しい振る舞いは求められるでしょう
私がそこで考えるのは
「自信があるか、ないか」という
個人的なコンディションで
子どもの環境が大きく影響されてしまうのはどうかと思うのです
例えばですが
あなたが裁判に臨む状況にあったとします
弁護士や検事、裁判官のコンディションで
裁判の結果が影響されてしまったらいかがです?
医師のコンディションで
病気が回復するかが影響してしまったら?
私なら、たまったものではないと感じるでしょう😰
保育士だって同じだと思うのです
保育の質が、個人の自信で左右されてしまったら
私は、自分の責務を果たせないと考えます
だからどうするか
自信のある保育を展開するよりも
理論に基づいた保育を実践することだと思います
子ども、というかヒトの育ちについては
様々な研究者が見出してくれています
発達の順であったり
心理的な影響であったり
人間工学的な環境であったり
子どもの育ちにとって“より良い”ものを見つけてくれています
私は、それらを参考に
自分の職場で実践できるものを
できるだけ子どもたちに提供する
私に自信があるとかないとかに依らず
子ども達がそのポテンシャルを発揮できる
それが自分の職責だと思うのです
自分が保育の真ん中に立たないように
あくまで子どもが中心にいるように
そのために、私は自信を持たないことにしたのです
【年齢別】絵本・児童書セット〜絵本ナビベストセレクション〜“誰でもできる”ことに価値がある
「標準治療」という言葉をご存知ですか
標準治療とは
科学的根拠に基づいた利用可能な
「最良の治療」であることが示され
患者に適用されることが推奨される治療のことです
「先端医療」という言葉もあるため
標準治療は一時代前の医療のように感じられがちですが
現状では最善の治療方法ということですね
私は、保育も同様であると思います
日々の保育をする中で
「それは先生だからできるんだよ」
と言われたら
それは喜ばしいことではない
以前、担任していたクラスの保護者から
「人気No.1、2の先生で良かった」
と言葉を掛けられたことがありました
評価してくださったことはありがたいのですが
相方も私も、保育所保育指針に則った保育を目指していただけです
特別な保育をしていたわけではありません
こういう言葉が保護者からあるということは
保育園全体の保育が一定の水準にないということです
保育所保育指針に基づいた保育をする
私たちが担任を組んだ時に確認したことです
目指していたのは、標準的な保育です
これは未だに課題として残っています
私は、保育士とは
ゼネラリスト(幅広く知識を持っている人)ですが
浅く広くで良いとも思っています
テストでいえば全教科とも60点あれば十分
不合格でなければ良いでしょう
保育園での保育は
誰でもできることが大事なのです
関わる大人によって保育の質にバラつきが出たら
子どもは自分の才覚を十分に発揮できません
だから「環境としての保育士」が問われるのです
以前、一緒に働いていた先輩は
「保育士は職人で良い」と話していましたが
私は個人の資質で保育の成果が変わってしまうのは
子どもにとって望ましいことではないと考えます
どの大人がそばにいても
子どもが成長できる環境が保障されること
保育士同士が連携して
保育理念や保育目標を共有し
自園の標準的な保育を提供できること
保育園という組織に求められるタスクだと思うのです
購入はこちら仕事は“属人性”を減らしたい
「私が行かないと、保育が進まない…!」
って思ったこと、ありませんか?
5歳児の運動会、発表会、卒園式など
多少の体調不良なら出勤したい
だって、私がいないと保育に支障が出ちゃう…
それ、かなり赤に近い黄色信号です🚦
保育園はあくまで組織ですから
多少の欠勤があっても仕事が成り立つものです
というか、成り立たせなきゃいけない
特定の保育士の休みで保育が止まるなら
組織としてかなりやばいです
一方で、私にしかできない保育しているのだとしたら
私自身が組織にとって問題のある保育士なのでしょう
だって、たった一人の存在が
子ども達の保育環境に影響してしまうのですから
特定の個人に頼る仕事を
“属人化”と言います
仕事は組織の物であるはずなのに
個人に属してしまっている状態ですね
属人化については、いつものごとく
【職場の問題地図】(沢渡あまね🄫技術評論社)
を参考にしていただくとして
「私にしかできない保育」は価値が低いんです
でも、保育園に今は無い保育を導入するためには
最初は「私にしかできない保育」が必要な場合もあります
では、その保育を属人化させないためにはどうすれば良いか
エビデンスに基づいた保育を実践し
言語化して同僚と共有することです
私の好きなサッカー漫画に
【アオアシ】(小林有吾©小学館)
があります
主人公の葦人は類稀なサッカーセンスを持っていますが
感覚的なプレーをするため
チームの中で浮いた存在になってしまいます
そんな葦人に監督が求めるのは
プレーの言語化です
自分の感じたものを言葉にして仲間に伝えることで
彼はサッカー選手として開花していくのです
先日、広報物のデザインに関する研修を受講しました
そこで講師が話されていたことも同様でした
デザイナーは
デザインをすべて言語化できるそうです
なぜこの配色にしたのか
どうしてこの配置にしたのか
自分が手掛けていないものでも
言葉にして説明することができる
保育も同様だと思います
その子の発達について
その遊びが必要な理由について
保育室の環境構成について
子ども達にかける言葉について
すべてに根拠や理由がありますよね
最初は自分しかできない保育も
共有して般化できる
それが保育士としてmustな能力だと思います
「私のせいじゃないし」🤪
最後にブッコミますが(笑)
理論に基づいて保育をしていると
自信って必要なくなるんですよ
だって「あの教授がこう言ってたんだもん」
って言えるじゃないですか🤣
保育所保育指針を作成した教授がいて
発達心理学の研究者がいて
人間工学で環境構成を考えた人がいて
私は、それを参考に保育しているだけなんですもの
私が考えた保育だったら
その責任はすべて私に返ってきますけれど
「あのエビデンスから保育したんです」ってなれば
それは、見出した研究者の責任じゃないですか🤪
仮に保育がうまく行かなかったとして
「今のこの子たちには合わなかったんだ」
「なら、別の方法に変えよう」
ってだけの話で済みます
自分で考えた保育で
子ども達に望ましいものでなかったら
それはそれは落ち込むことでしょう
でもね?
そもそも、私ってそんなに大した保育士だっけ?
私自身は
ピアノも弾けないし
泳げないし
逆上がりもできない
誤字脱字のオンパレードな保育士です💦
ただ、保育所保育指針に基づいた保育をしてます
(そうであるように努力はしてます)
オリジナリティはないかも知れないけれど
基本×基本を駆使して
子ども達に相応しい保育をしています(と思います)
自分でできることは限られているから
汐見先生の話に耳を傾けるし
大豆生田先生の著書を読み込むし
奥田先生の実践を参考にするのです
苦手なことは誰かに頼れば良いし
得意なことで誰かを補えれば良い
誰かを補えればよい私の保育は展開しない
あくまで、誰でもできる保育の実践を目指しています
保育士を勤めて最初の頃
一緒に組んでいた先輩が
「君に自信を持たせようとしたんだけどね…」
と年度末に残念そうな顔をされていました
その頃の私は、本当に箸にも棒にも掛からない保育士で
自分でも呆れるくらい仕事ができなかったのです
園長や先輩も私に自信を持たせようと四苦八苦していました
でも、そんな周囲を見て
私自身も苦しかったのです
それが、次の年に組ませていただいた師匠から
「君は、基礎を教えてもらってこなかったね」
「これからは実習生として扱うから」
と、保育の基礎の基礎から叩き込まれて
ようやく半人前になれたのでした
背中を見て学べとか
空気を読んでとか
自分で考えてとか
そういう曖昧なことは言わず
徹底的に言葉で保育を示してくれました
そして私にも言語化を求めてきました
その年の保育は、例年にない実践でした
師匠が研修で学んできたことを導入してきたからです
ですが、システム化された保育だったので
ポンコツの私でも保育が進んだのです
みっちりしごかれる場面もあったのですが…💦
職人肌の先輩と保育をしていたら
今の私は保育園を去っていたかも知れません
実際、その前年は
「もう仕事に来たくないです」
と園長と相談していましたしね🤫
そんな紆余曲折もあった上で
保育で重要なのは理論と技術と割り切ったのです
そして、自信を持つのをやめてから
保育が楽しくて仕方ありません(笑)
あくまで、私個人のエピソードですが
もしも「自信がない」と悩んでいるのであれば
いっそのこと、“自身”を手放してみてはいかがでしょうか
人生でも「断捨離」が必要な場面が
あるのかも知れませんよ
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