毎日の 保育をつくる 子どもたち

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毎日の 保育をつくる 子どもたち こんな遊び、どう?

こんにゃちは、猫月です😸

「子どもたち を 保育する」よりも
「子どもたち と 保育する」ことが
私の仕事だと考えています

レツキ
レツキ

何となくのニュアンスはわかりますけど
具体的な保育の仕方が伝わりません…

猫月
猫月

たしかに保育の様子を想像しづらいかもね
今回は事例を交えてお話ししていくよ

以下は、私が保育で大切にしていることです
・保育者はあくまで子どもの支援者
・保育の当事者は子どもたち
・子どもがやってみたくなる環境を整える
・再現性の高い内容を考える
・子どもの姿に合わせて柔軟に展開する

工藤勇一さん(元千代田区立麹町中学校長)も仰っていますが
教育・保育の目的は、子どもの自立にあります

たとえば、生徒同士のトラブルで
教師が過度に介入することで
「自分の問題は自分で解決するものだ」という
子どもたちの当事者意識を失う危険性を指摘しています
そして「対立関係をやめるためにはどうすればいいんだろう」
「事態を解決するためにはどうすればいいんだろう」と
当事者同士で考える機会の重要性を強調しています

つまり、子どもたちが自ら問題に向き合い
解決に向けて考えることを通して
成長の機会を得られるということです

これは保育でも同じです
日々の活動や友だちとの関わりの中で
子どもたちが自分たちで考え行動する機会を
保障することが重要です

学校や保育園が子どもに尽くすのではなく
子ども自身が事態と向き合う力を身につける場であると
私たちが心していなければなりません

大人がいないと行動できない
考えられないという状況では
子どもの自立を育むのは難しいでしょう

だから、保育の軸は子どもたちにありますし
「子ども と 保育する」と考えているのです

ここからは私の保育事例を元にしながら
「子どもたちが保育を作る」ことについて
みなさんと考えていきたいと思います

最後までおつき合いいただけたら
ありがたいです

1歳児のSちゃんの見立て遊び

土曜日保育は登園する子どもが少ない日です
その日は1歳児のSちゃん1人
2歳児1人、5歳児4人という状況でした

午後のおやつを食べ終わり
Sちゃんは玄関でお迎えを待ちながら外を眺めていました
まだ1時間以上あるお迎えの時間をどう過ごすか
私はある遊び道具を思い出しました

私は以前に一緒に遊んだ
“つなげて遊べる道路”を取りに行きました
Sちゃんは私の意図を察したのか一緒にやってきます

道路は車輪付きのコンテナに入っていて
私が運ぼうとするのを制して
Sちゃんは自分で引いていきました

保育室へ戻り
私がコンテナを開けようとすると
Sちゃんがそれを拒みます
「道路で遊ぶんじゃないの?」と尋ねると
首を振ってコンテナを引いていってしまいました

室内をぐるりと一周したところで
Sちゃんはままごとを始めます
そして盛り付けたお皿を3つ
コンテナの上に載せるのです

ふたたびコンテナを引いたSちゃんは
私の前へ来て「どうぞ」と料理を差し出しました

Sちゃんがどんな遊びを始めたのか、わかりますか?

これは私の推測ですが
Sちゃんは、コンテナを
キッチンワゴンに見立てたのだと思います

それを思いついたのが
私がコンテナを持ち出した時なのか
コンテナを引いているうちに思いついたのか
保育室についてままごとを見たからなのか
それは当人しか知る由もないのですが

そこからSちゃんはお迎えが来るまでの1時間を
料理をして、ワゴンで運んで
私に食べさせて、皿を回収して部屋を一周してと
ずっとご機嫌で遊んでいました

私は以前の経験から
Sちゃんを道路遊びに誘ったわけです
でも、Sちゃん自身は
以前の楽しかったことよりも
その時に思いついた遊びを広げました

ひとつのおもちゃでも
子どもはいろいろな遊び方を思いつきます
そして、大人の「こう遊ぶもの」という思い込みを
簡単に打破していきます

研修を受けた際に
作業療法士が子どもの遊びの重要性を解説していましたが
このように、その時やりたい遊びが
その子の成長に必要な遊びだといえるのです

ここで「これは道路だよ」
「車ごっこに使うよ」としていたら
Sちゃんの発想や遊びの広がりは
無かったわけですからね

最初は寂しそうだったSちゃんが
キッチンワゴンに見立てた遊びを通じて笑顔になり
自分の時間を創り上げていきました
その姿は、子どもの遊びの持つ力を改めて教えてくれます

主体的に遊ぶ時間こそ、子どもたちが育つ瞬間なのです

2歳児の三輪車とすべり台

ある日の園庭遊びでの一場面です

園庭遊び中、私は
すべり台のそばで子どもたちを見守っていました
三輪車で遊んでいたIちゃんが
『すべって良い?』と尋ねてきたので
どうぞと答えました
その時、Iちゃんの三輪車を見ていたVちゃんがやってきて
乗りたそうにしています

それを見ていた保育者が
Iちゃんにこう言いました
「Iちゃん、すべり台で遊ぶなら
 三輪車はVちゃんにちょうだい!」

私はその保育者に
ちょっと待って欲しいと声を掛けました

Iちゃんは
一度三輪車を手に入れた喜びを持ちながらも
すべり台でも遊びたい気持ちがあり
どちらを優先するか迷っていたようでした

だから、今は選んでいる途中なので
私はそれを待ちたいと伝えました

当のIちゃんは三輪車とすべり台とを見比べて
またVちゃんのことも見つめた上で
「すべり台にする。
 Vちゃん、三輪車いいよ」
と譲ったのでした

2歳児ですから、まだ思考の中だけで
優先順位を付けるのは難しいのです
「どっちも遊びたい」が本音でしょう
たまにいますよね?
三輪車を持ってすべり台を登ろうとする子(笑)

大人からすると「それは無理よ」とか
「危ないでしょ」とか言いたくなりますが
おそらく子ども自身は大真面目なのです

だから、見守る大人としては
どうしてそうしようとしたのか
子どもの“動機”に注目したいのです

そこを大人の目線だけで
「それは欲張り」とか「わがまま」としてしまっては
子どもの“判断する”、“比較する”という
成長の機会を損ねてしまいます

もちろん子どもたちには
モラルとかマナーとか、心遣いも覚えて欲しいのですが
そのためにはまず、子どもの尊厳を保障することが重要です

実際、Iちゃんの行動を見守ることで
“判断する”という体験ができましたし
友だちに”譲る”という経験もできました

Iちゃんのように迷いながらも
主体的に判断する経験を大切にすることが
子どもの自立と社会性の成長に繋がります
小さな体験の積み重ねが
子どもにとって大きな学びとなるのです

3歳児の砂場遊び

これまた、とある日の園庭遊びの一場面です

園庭遊びで、古タイヤや巧技台を使った
バランス遊びを用意していましたが
砂場にも足元が悪い場所を作り
運動遊びの場を広げようと考えました

砂場に畝を作れば子どもたちは喜ぶのではないかと
子どもたちは砂山を作って登るのも好きですしね

私が畝を作るために直線状に掘り進めていると
近くにいた子どもたちが気付きました

『ここ線路だ!』『電車、持ってきて!』と
おもちゃの列車を持ち出し、みんなで鉄道ごっこを始めました
さらに、『新しい線路を作ろう!』と協力して
砂場に路線を広げたり修繕したりしながら
遊びを発展させていきました

私が想定していたのは運動遊びです
そのために砂場を掘っていたわけですが
そこで子どもたちが始めたのは
ごっこ遊びでした

私としては子どもたちの姿に驚きです

それまでずっと身体を動かすことに夢中だったのに
まったく関係のない場所で掘割っぽいものを見た瞬間
遊びを切り替えただけでなく
友だちとイメージを共有しているのですから!

私が掘った一筋の堀を皮切りに
「こっちにも線路が欲しいよ」
「ここが崩れちゃったから直して―」
と自分たちで新線を掘ったり修繕したりと
自分たちだけで遊びを広げていきます

こういう時に私は感じるのです
「遊びが、子どもたちのものになった」と

保育では、子どもの発想だけでは
遊びが展開するのはどうしても難しいです
子どもの経験量はやっぱり限られますからね
だから、保育者は遊びのきっかけを提供します

でも私は、遊び方を子どもに教えることは
あまり好ましいと思いません
「子どもは、子どもの中で育つ」もの
遊びは、子どもから子どもへ継がれていくのが理想です

でも、少子化の現代では
子ども同士の関わる機会も限定されていますから
時には、遊び方をそれとなく
大人が気付かせることも大事になっています

そのきっかけとして
私はアフォーダンスを重視しています
子どもが「そうしたくなる」環境設定です

今回の事例でいえば
砂場に畝を作ることで
足元の悪い場所を歩く運動遊びを喚起したかったのです

保育では環境設定が重要ですが
子どもたちの発想が環境を超えて遊びを作り出す場面に出会うと
驚きと喜びがあります

まぁ、思惑としては失敗だったわけですが
「その時やりたい遊びが成長に必要な遊び」ですから
このように、子どもたち自身が遊びを作り出す姿こそ
主体性を育む保育の醍醐味です

運動遊びはまたの機会に挑戦するとして
子どもたちの鉄道ごっこを見守りました

遊びを提供するときに気を付けたいこと

さて、ここではちょっと話の流れを変えます

縁日ごっこについて
保育者同士で話し合った時のことです

縁日ごっこでは
5歳児が巨大迷路を出店することになりました

その際、『入場料をどうするか』という議題が上がり
保育者間で意見が分かれました
ある保育士は『お店でお金を使う経験が必要だ』
と主張しましたが
私は意見を述べました
「ごっこ遊びの中で子どもたちが気付き
 お金を導入したいと言い出せば、それは意味がある
 けれども、当の子どもたちはお客さん対応に集中している」と
大人が準備するのではなく
子どもたちの発案を待ちたいと思ったのです

すると、先輩保育士から
『恐竜の山車を作ったときも
 大人が準備をしたよね?』
という意見がありました

今回のお金も以前の山車も
大人が準備したものという点では
同じではないのかという話です

これを読んだあなたは、どのように考えますか?

確かに、3歳児のときに恐竜型の山車を作り
子どもたちは塗装や曳く役割を楽しみました

しかし、ここには明確な違いがあります
それは、“誰がリソースを割くのか”という点です

ここでのリソースとは
時間やエネルギー、アイデアを出す努力のことです

山車の準備にリソースを割いたのは私です
用意された山車に対して
子どもたちは塗装したり祭の日に曳いたりしたんですね

縁日でのお金にリソースを割くのは子どもたちです
巨大迷路の準備と店員という役割の他に
お金を扱うという別の負担が加わるのです

私が視ているのは
「大人が作る」ことではなく
「子どもに負担がかかる」ことなのです

これが、子どもたちの発案であれば
子どもたちがリソースを割くのは
当然のことと考えます
そこには子どもたちの主体性があり
それを叶えるための努力は子どもがするものだからです

でも今回のお金の件は
大人の考える理想を、子どもたちが叶える恰好です
そこに違和感を感じるのです

結果的に
縁日ごっこでのお金の導入は見送りました
その理由は、お金の扱いは大人の理想であり
子どもたちの発案ではなかったからです
子どもの主体性を大切にする保育を心がける中で
これは重要な判断でした

加藤繁美教授が仰っていました
『保育園の先生たちは
 悪意なく子どもたちを管理したがる』と
教育・保育はあくまで子どもが主体的であるはずなのに
“主体性を引き出す”ために
保育者の思い通りに行動させたがるという
パラドックスがあると説明されていました

将来的には確かに
金銭を扱うという学びは必要ですが
そのタイミングについても
やはり子どもの主体性を重んじたいと思うのです

給食での風景

さて、最後に遊び以外の事例もお話ししましょう

私は、給食やおやつで
子どもたちが『食べたい』と思うことを
大切にしています

ナツキ
ナツキ

子どもの好き嫌いはどうするんですか?
苦手な物を食べる経験も大事ですよね

猫月
猫月

食経験を豊かにすることは大事だよ
でも、それは「食べてみたい」という
子どもの思いがあってこそだよね

保育園には栄養豊かな食事を提供する責任がありますが
子どもたちには完食の義務はありません

先ほどの加藤教授の話ではありませんが
「子どもに食べさせる」ことが
保育の“食事指導”だと考えている保育者は
残念ながらまだ多くいるのだと思います

うちの保育園では
まず規定量を配膳することになっています

私はそこから
『自分が食べられる量』を加減するよう伝えています
配膳台には加減用の器を用意し
食品を種類ごとに分けられるようにしています

例えば『カレーが嫌い』という子がいました
私と話す中で、その子は
『カレーのじゃが芋が嫌い』と自己分析を進めました
それ以降、その子はじゃが芋だけを減らせるようになり
カレーを楽しむ姿が見られるようになったのです

こうした給食提供をする理由は
『誰にでも苦手な物がある』
『いつかは食べられるようになる』
『食事は楽しい時間』という3つの前提があるからです

大人で考えてみてください
とある定食屋で食事をしていたときに
付け合わせのパセリを残したら
『お客さん、パセリも食べなさいよ』
『食べ終わるまで帰さないよ』
何て言われたらどうですか?
不快極まりないですよね

「苦手な物も食べなさい」という指導は
子どもの主体性を奪うものであり
「子どもの生活を豊かにする」という
保育の意義とは本末転倒だと感じます

実際に、自分で量を加減するようになった子どもたちは
次第に苦手な物を克服していきました
年の初めは苦手な物だらけだった子が
年末には完食が当たり前になる姿も見られました
この変化には私も驚きましたが
それは安心感のある環境が影響していたようです

動物は睡眠、排泄、食事の時間に無防備になります
これらの場面は本能的に不安になるのです
だからこそ、食事を安心できる時間にすることが大切です
その安心感が、子どもたちが挑戦しやすい環境を作り
苦手な物へのハードルを下げたのだと思います

この経験を通して、私は改めて気付きました
好き嫌いをなくすためには
まず好き嫌いを十分に認めることが必要です
給食やおやつの時間も
子どもたちが主体的に向き合う場であるべきなのです

最後までお読みいただき
ありがとうございます

私は子どもたちに
いつもこんなことを伝えています

「本当は、みんなだけで生活できるのが理想だよ」
「でも、難しいことがたくさんあるから、
 それを手伝うために私たちがいるよ」
「まずは、難しいかどうか試してみてね」

子どもたちの成長は、無限大だと信じています
大人の予想を遥かに超えていくからこそ
ヒトはここまで進歩してきたのだと思うのです

もちろん、子どもの成長を妨げるものもあります
だからこそ、それを避けられるよう支援するのが
私たち保育者の役割だと思っています

こう言うと少し冷たく感じるかもしれませんが
保育士はあくまで「仕事」のひとつです

ただ、その仕事を「誰でもできる」と言われると
憤慨する保育士もいるでしょう
でも私は、保育を「誰にでもできる仕事」にしたいのです

なぜなら、保育は再現性が重要だからです
誰が担っても子どもたちの成長を保障できることが
質の高い保育だと考えています

そして、子どもたちにとって最善の保育のカギは
目の前にいる子どもたち自身が握っています
「子どもは、子どもたちの中で育つ」
「やりたい遊びが、成長に必要な遊び」
そんな言葉がありますが
「子どもたち を 保育する」のではなく
「子どもたち と 保育する」ことを意識すると
もっと子どもたちと生き生きと毎日を過ごせるはずです

保育を作るのは子どもたち
私たち保育者は、それを支援する存在です

少しでもその視点を意識してもらえたら
とても嬉しく思います

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