こんにゃちは、猫月です😸
最近の子育てに関する記事を読んでいると
「主体的」「主体性」という言葉を
よく見かけるようになってきました
ところで似たような言葉で
「自主的」「自主性」というものも
よく耳にしますね
あなたは目の前の子どもに
「主体的」な人間に育って欲しいですか
それとも
「自主的」な人間に育って欲しいですか?
🤔それって、何か違うの?
そう思われるかも知れませんね
今回は「主体的」と「自主的」の違いの話と
子どもに育って欲しい将来の話です
・「主体的」と「自主的」
・「自由」と「責任」
・「甘えさせる」と「甘やかす」
・子育ての目的は“親がいなくても”
・その子は「主体的」?「自主的」?
「主体的」と「自主的」
👆は工藤勇一さんのXでのポストですが
このポストを読んで
あなたはどのような感想を持たれたでしょうか
私としては
工藤さんのご意見に賛同するところでして
子どもの主体性をどれだけ補償できるかが
保育者・教育者の矜持だと考えております
簡単に言うと
「主体的」な子は
自分の思いを軸に
仲間や社会と調整しながら
行動を判断します
自律的ともいえるかも知れません
「自主的」な子は
仲間や社会に要求されるものに
自分をアジャストさせようと行動します
他律的ともいえるでしょうか
ここで考えてみましょう
いわゆる「問題行動」をとる子は
主体的でしょうか?
自主的でしょうか?
校則や法律など
ルールに対して反抗的で反逆し続ける彼らは
主体的でしょうか
自主的でしょうか
🤔…猫月は何を言っているんだ?
正解!😹
これはずっと思っていたことなのですが
問題行動って
規範の逆の行動をしていますよね
登校に時限があるから
その時間に登校しない
道路交通法があるから
その法律を守らない
「やりなさい」
「やってはいけない」に対して
敢えて反抗しているわけです
でもそれって
裏を返すと
校則や法律を軸に
「それに逆らうような行動」
をしているだけで
独自の道徳や規範を作っているわけでは
ないように感じます
つまりは
ずっと校則や法律に縛られている事実には
何ら変わりはないと思うのです
「主体的」と「自主的」の話に戻りますが
主体的な人間は
自分を軸に社会と関わりますから
世の中のルールなどを
自分にどんなメリットがあるかを考えて
守ることを選択します
自主的な人間は
「社会に求められるから」と選択しているので
自分へのメリット・デメリットの精査が疎かです
問題行動を取る人たちは
自分へのメリット・デメリットよりも
「とにかくルールに逆らう」ことが判断基準なので
結局は、ルールに縛られている
私にはそう思えるのです
工藤さんのポストの趣旨とはズレると思いますが
主体的な人は
「このルールは自分にメリットがある」
「このルールを自分にデメリットだよね」
「意味のないルールなら、変えた方が良いよね」
自分軸で物事の判断ができるでしょう
自主的な人は
「誰かに言われるから守るもの」
「誰かに言われるから破るもの」
誰かに作られた基準に左右されてしまう
そんな違いがあると
私は考えています
「自由」と「責任」
子どもの「主体性」を尊重すると
「わがままになる」という方がいらっしゃいます
では、大人の場合はどうでしょうか?
主体的に仕事をされている方は
わがままに働いているのでしょうか?
そんなことはないですよね
私は子どもと向き合う中で
子どもの「主体性」を尊重していますが
それと同時に
子どもの「責任」も尊重しています
「子どもに”責任”を取らせるなんてできない」
という人もいますが
アドラー心理学に
【課題の分離】という言葉があります
課題の分離とは簡単に言うと
「自分の課題」と「他人の課題」と
を分けてとらえることです
自分がコントロールすることは自分の課題
相手がコントロールすることはその人の課題
と考えます
例えば、学校の宿題で考えてみましょう
「自分の課題」
自分が宿題を手伝うかどうか
宿題をするよう声を掛けるかどうか
宿題に取り組んだことをどう評価するか
「他人の課題」
子どもが宿題をやるかどうか
子どもが宿題をいつやるか
子どもが宿題をどこまで取り組むか
大人からしたら
「宿題はやるもの」
「真面目にやり遂げて欲しい」
と思うかも知れません
でも、それは子どもの課題であって
大人がどんなにヤキモキしても
子ども自身のやる気は変えられないものです
それとあわせて
宿題をやる・やらないの責任を
大人が代わってあげることはできません
それは子ども自身に返ってくるものです
簡単にいうと
子どもの行動の責任は
子どもにしか背負えないのです
子どもの「自由」を尊重するということは
子どもの考えを尊重するとともに
その結果に対する「責任」も保障することです
危ない場所で子どもが走った
結果、頭をぶつけてコブをこさえた
そのコブ、大人に付け替えられます?
その痛み、大人が請け負えますか?
できませんよね
「だから怪我をさせないようにするんでしょ💢」
という声が聞こえてきそうですが(笑)
本当の意味で
子どもが「ケガをしないように」なるためには
大人がいなくても
ケガをしないよう判断できるようになることです
「ケガをさせない」ことが目的ではなく
「ケガを回避できる」
「しても致命傷を負わない」
「した時に必要な対応ができる」
子どもの自立が望ましいですよね?
そのためにはどうするか
子どもが自分で考え判断することです
そのためには
自分の意思で行動する「自由」と
行動した結果を受け止める「責任」と
そのどちらもが必要です
子どもには「責任を取る権利」がある
と私は考えています
子どもをしっかりと見守りつつ
子どもが自分の責任と向き合える
そういう関わりこそが
子どもの自由を保障していくことだと思うのです
「甘えさせる」と「甘やかす」
「甘えさせる」と「甘やかす」
似ているようで異なる言葉ですが
なにが違うかわかりますか
簡単にいうと
「甘えさせる」は
相手の甘えを受け止めること
「甘やかす」は
相手に必要以上の助力をすることです
例えば
子どもが宿題をしているとして
子どもが「教えて」というので助言するのは
甘えさせる
子どもが考える前に答えを教えるのは
甘やかしですね
アニメの「サザエさん」を観ていると
毎年夏の終わりに
カツオくんの宿題がネタにされていました
要は、夏休み中にずっと遊び惚けて
最終日までに宿題が終わっていない
なので、波平さんやマスオさんが
はちまきしながら宿題を解いているんですね
波平さんというと
頑固で厳しい父親のイメージですが
やっていることは「甘やかし」なんです…
どんなに口調をきつく
厳しい言葉を並べても
カツオくんに責任を取らせていない
本当に厳しい態度で向き合うなら
「宿題をやらなかったのか」
「なら、白紙のまま先生に提出なさい」
これで終わりです
カツオくんが宿題をしなかったのは
彼の意思であり、判断です
彼の自由がそこにはあり
その結果を担う責任も彼にあります
カツオくんの自立を願うのであれば
「宿題は取り組んでいるのかい?」と
都度に声を掛けることはあっても
肩代わりはしないものです
どんなに大声で怒鳴っても
正座で説教を聞かせたとしても
波平さんは、カツオくんを甘やかしているのです
「𠮟る」という行動は
厳しさの表れではありません
相手を自分の意のままに行動させたい
それが叱るという行動の意義です
「褒める」も同様で
言葉や態度は叱るとは違っても
相手を自分の思った方向へ誘導したい
その方向性は同じなのです
叱っても、褒めても
子ども自身の責任を保障せず
大人の手で物事を解決させているのであれば
それは「甘やかし」です
「甘える」には子どもの主体性があります
甘えたいのは、子ども自身ですからね
それを受け止めるかどうかの反応として
「甘えさせる」ことになります
一方で「甘やかす」のは大人の意向によります
子どもの意思よりも
大人が黙っていられない、見守っていられない
「自分の思い通りにしたい」欲が表れているのです
子どもの自立よりも
大人のその場その時の思いが優先されている
それは本当に
「子どものためを想って」の行動でしょうか
私には、大人のわがままに見えますが
あなたはどう思われますか?
子育ての目的は“親がいなくても”
子育ての目的って、何でしょうか
端的に言ってしまうと
「自分でご飯が食べられるようになること」です
親がいなくても生活ができることですよね
いつまでも可愛い子どものままでいて欲しい
そういう人もいますけれど
それは大人の欲というものです
子ども自身は、一人前になりたがっている
だから
イヤイヤ😫も言うし
一人でできる!💢と主張するし
できなぃぃぃ😭と癇癪も起します
そういう姿に
「何でいうこと聞かないの」
と思うか
「いっちょ前なことを言うようになったなー」
と思うのか
うちの子は思春期真っ盛りですが
毎日のように妻とぶつかっています
自分の思いもあるし
一方で自分ではやり切れないこともあるし
親との関りに葛藤しているようです
日本の制度でいえば
中学校を卒業すれば就職もできる
18歳になれば成人です
うちの子がそこまで
自立について意識しているとは思いませんが
心の奥底では「親離れ」が顔を出しているのでしょう
子どもは自我の芽生えと共に
「自立」というか
「大人と対等」という思いが育っています
生意気をいって
そっぽを向いて
でも内心はまだまだ甘えん坊
大人はそんな子どもの姿に
憎まれ口は叩かれるわ
こちらの話は聞かないわ
危ないと言ったことをワザとやるわ…
何にでも笑っていたころが
うそのよう…
乳児のときとのギャップに
「どうして?」と
戸惑いやイライラを感じるのは
まぁ仕方ないですよね
私もイラっと感じることはありますが
「うん、ガンバっているんだもんね」
と思うようにしています
子どもはいつか巣立つものです
親だってずっとこのままではいられない
子どもはぐんぐん成長していくし
一方で私は老いていきます
腰が痛い日も増えたし😭
ものがかすんで見えることも多いし😑
物覚えも悪くなってきました😱
自分のことで手いっぱいになるのも
もう時間の問題です
乳幼児をみている方には
まだ遠いことのように思えるかも知れませんが
これがあっと言う間なんですよ💦
焦る必要はないけれど
でも子どもは突然大人になるわけじゃない
毎日、毎日、
少しずつ確実に大人に近づいています
だから
「私がいなきゃ」と心配するより
「私がいなくても」と信頼する
子どもが自分で発想して何かをしていたら
「ん?」と思うことがあっても
敢えて見守りたい
致命傷さえ負わなければ大丈夫
転んで大泣きしていたら
「びっくりしたね」
「痛かったよね」
でも
「がんばったね」
「自分で立てたね」
だと思います
子どもが転ばないようにと
ずっと大人が傍にいることはできません
だから
転び方を身につけてもらう
ケガを軽く済ませられる転び方をね
そして自分で立ち上がって
「もう一度」と思える後支えをする
そうやっていろいろなことを体験し
「これはやったら危ない」
「だったらどうしよう?」
「これなら大丈夫」
そうやって自分で考えられるようになる
大人が傍にいなくても
自分の身を自分で守れるようになれば
親も安心して手や目を離せるようになりますよね
子どもが「主体的」であることは
親が安心できることにも繋がっているのです
その子は「主体的」?「自主的」?
さて、長々と話してきましたが(笑)
今、目の前にいるその子は
「主体的」ですか?
「自主的」ですか?
子ども自身が何かをしているとき
大人がいなくてもそうするのか
大人がいるからそうするのか
その見極めは大事だと思います
「言われるからやる」なら
「言われなければやらない」ですし
「叱られるからやらない」ならば
「𠮟られなければやる」ですよね
子ども自身に目的があるから
それをやる(orやらない)
子ども自身が安全を考えて
それをやらない(orやる)
目の前に苦手なにんじんのグラッセがある
子どもが一口かじってみる
その子どもの動機が
「一口は食べてみよう」だったのか
「食べないと怒られる」だったのか
大人からすると
「苦手なにんじんを食べた」という事実ですが
その子の成長に好影響なのは
「主体的」?
「自主的」?
どちらだと思いますか
大人が理想とする行動をした
子どもの姿には変わりないかも知れませんが
その子の動機によっては
後々の成長には違いが出てくるのではないでしょうか
だからこそ私は
子どもの「主体的」「自主的」の違いに
注目していくことがとても大事だと考えています
あなたは主体的に過ごしていますか
それとも主体的に過ごしていますか
大人も同様だと思いますが
ご自身に当てはめた場合はいかがでしょうか
最後までお読みいただきありがとうございました
言葉のニュアンスだけでなく
相手の心に寄り添う意味でも
「主体的」と「自主的」を
時に気にしてもらえたらと思います
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