こんにゃちは、猫月です😸
今日はひとつのテーマについてではなく
私が子どもと向き合っている中で気になったことを
箇条的につらつら書いていこうと思います
思ったことを書いていくので
特に結論もなければ
尻切れトンボ的に終わるかも知れませんが
ま、たまにはそんなのも良いでしょ(笑)
ということで
いくつかのエピソードをお話ししていきます
・お絵描き遊びの場面で
・登園時の場面で
・遊びのつまみ食いの場面で
・お昼寝の場面で
・片付けの場面で
お時間を拝借できれば、幸いです
お絵描き遊びの場面で
子ども達がお絵描きを楽しむ
日常的な話ですよね
ただ、子どもの画力は発展途上
イメージをすべて表現できるかといえば
なかなか難しいです
例えば
顔を描こうとして
○が三つで完成、ということもありますよね
そういうシンプルな絵をくり返す中で
徐々にイメージと身体操作が向上して
よりリアルな絵になっていくんです
ところでですね
私の職場では
紙にスペースが余っていると
「もっと描いてから」と
新しい紙を渡さない保育者がいます😓
「紙が勿体ない」
というのが理由なんですが
私としては疑問なわけです
SDGsとは言いますけれど
あれって「とにかく節約して」という話とは違います
あくまでSustainable Development Goals(持続可能な開発目標)ですし
課題の4は「質の高い教育をみんなに」となっています
質の高い教育を提供していこうというのに
子どもの表現の成長に必要な紙をケチっていたら
教育の目的と本末転倒ですよね
そもそも私が思うのは
子どもが描いた絵とはいえ
それは尊重されるべきひとつの作品です
例えばですが
ゴッホのヒマワリを観て
「あー、ここがまだ空いてるよ」
って思う人、いますか?
バンクシーの作品を見て
「もっと壁があるじゃない」
って指摘しますか?
もしそんなことを言う人がいたら
私は「センスない人だなぁ」と思うでしょう
子どもの絵も同じだと思います
大人にはぐしゃぐしゃっと線を走らせたように見えても
その子からしたら、その絵は完成しているんです
完成した絵に対して
「まだ描くところがあるでしょ」って
とても失礼な話だと思いますよ
端的に言って、品がない
何気ないお絵描き遊びだとしても
そこには敬意を持っていたいと思うのです
登園時の場面で
登園時、なかなか保護者と離れられない子もいますよね
気持ちを切り替えて保護者を見送ってくれたら最善ですが
乳幼児にそれを求めるのは
なかなか酷な話だとも思います
保護者と離れるのですから
寂しいのは当然です
保護者から子どもを預かる時は
「じゃぁ、ここで交代するよ」と告げた上で
抱きかかえるようにしています
子どもは泣くわけですが
ここで「大丈夫、泣かないで」というのは
共感には程遠いな、と思うわけです
子ども自身が泣きたいわけですから
泣きたいだけ泣くことが大事だと思うのです
今、その子自身が必要としているのは
泣いて、自分の気持ちと向き合う時間
そして保育者は、受容して見守ることではないでしょうか
だから私は
子どもを預かったあとに
「おじさんの固い胸でゴメンねー」
「そりゃ、ママ・パパが良いよねー」
「今は、泣きたいだけ泣いて良いんだよ」
と言葉を掛けます
あとは、その子が泣きたいだけ
受け止めて過ごします
「大丈夫、泣かないで」と言われても
子どもからしたら
なにも大丈夫ではないし
泣きたい思いすら否定されている
情緒的には、安心には程遠い状況ですよね
寂しい思いを肯定する
泣いている姿を肯定する
それが、結果として
子どもを安心させるのではないでしょうか
泣き止ませることが目的ではありませんが
そういう関りの方が
子どもは早く泣き止みます
そして、友だちが泣き止む姿を見ると
周りの子たちも動揺せずに済みます
「一人にばかり構っていられない」
という声もありますが
子ども達は一人を大事にする様子を見て
自分も大事にしてもらえると
思うのではないでしょうか
遊びのつまみ食いの場面で
「遊びのつまみ食い」と言われるものがあります
ある遊びをしていた子が
その遊びを片付けずに
別の遊びへ移ってしまうことですね
大人からすると
「片付けもしないで」となるのですが
これって、そんなにいけないことなのでしょうか?
例えばですけれど
ある子がままごとで遊んでいました
いくつかの料理を作って
お皿に盛りつけています
と思ったら、その子は
ブロック遊びへと移っていきました
盛られた料理はそのままです
ここで私は考えるのです
もし、その子の遊びが
「料理」する遊びから
「デリバリー」する遊びへと
イメージが展開していたら?
その子はままごとを放置したわけではなくて
乗り物を用意しに行ったのかも知れない
もちろん、幼児ですから
最初の目的を忘れて
次の遊びに夢中になってしまうかも知れない
でも、大人の判断で
「この子は散らかしたまま他の遊びを始める」
と判断してしまうのは
早計な気がします
それに、私としては
子どもの行動には大らかな態度で向き合いたいな
とも思うのです
お昼寝の場面で
午睡の場面で
寝るときも起きる時もですが
「早く寝なさい」
「早く起きなさい」
という言葉を聞くと
げんなりしてしまうのは私だけでしょうか
睡眠は生理現象ですから
他者からとかく言われたって
自分でもコントロールできませんよね
「寝なさい」「起きなさい」という保育者は
自分の意のままに
寝たり起きたりできるんですかね?
私としては
睡眠はゆったり眠り
ゆったり起きるのが理想だと考えています
そもそも、睡眠には
本能的恐怖感がついて回りますしね
自然界では睡眠時に
天敵に襲われることが多いですから
そう考えると
「寝なさい」と迫られたら
むしろ安心できないので
入眠は遅くなるでしょう
起きる時だって
しっかり眠った子は
そんなに起床してすぐに
テキパキとは動けないのが道理だと思うのです
でも、
「早く起きなさい」
「布団を持ってきなさい」
「押入れを閉めますよ!」
というのは、
ロジカルな教育者の言葉とは程遠いです…
自分がその立場と想像した時
どんな入眠が心地良いか
どんな覚醒が快いか
そこも想像しながら
子ども達の午睡環境を整えたい
お昼寝の時間が来るたびに
思うところです
片付けの場面で
私、子どもの頃は
ブロックやプラレールが大好きでした
作ったものにさらに手を掛けて
自分のイメージを仕上げていく
日々の更新が楽しかったのを憶えています
そう考えると
保育園の子ども達も
その日で遊びはおしまい
というのでは
イマジネーションが磨かれないように思うんですよね
だから、可能な限りは
その子の遊びを継続できる環境にしてあげたい
それと矛盾するのが
遊びの片付けですね
私からしたら
片付けの呼び掛けって
その子の発達をDeleteするような作業なんですけど…
その子自身が
「この遊びはおしまい」と判断して
自分で片付けるならわかるんです
でも、大人が「終わりだよ」としてしまうのは
それは大人の都合であって
教育的判断とは違うように感じます
もちろん、集団生活ですから
共有物を独占し続けるのは
他の子には困った事態ですよね
もう一ついえば
やはり散らかったままの環境は
衛生面でも安全面でも
やっぱり支障があるわけです
であるならば
その前提も子ども達に伝えつつ
「このままで良いかな?」
「片付けた方が良いかな?」
と一緒に考えたいです
さらに付け加えるならば
その子自身の意識に対して
きちんと終点を付けてあげることも大事
「この遊びは終わったよね」
「だから、新しい遊びを楽しんで」
と結ぶことで
その子の遊びがリセットされる面もあります
私は、絵本もそうですが
「続きにする」というのは
大事な環境なんじゃないかと思っています
玩具にふれていない時間にも
子ども達の中ではイマジネーションが広がっている
離れている間に、別の刺激にふれて
それをとっかかりに遊びが拡大、伸展していく
そういう目に見えない活動が
子どもの中にはあると思っています
「片付け」は環境として大事なんだけれども
同じくらい「片付けない」も大事なんじゃないかな
どうしても片付けなければいけないなら
せめて復元を大人が手伝うとか
そういう手立てもあると思うのですが
いかがでしょうか
ということで
今回の記事では私の思うことを
ぽつぽつと記してみました
これにはエビデンスがあるわけではなくて
私が子どもの頃に思っていたことや
保育中の子どもの姿から
思いを馳せたことなどからきています
いわゆる「感情論」なので
実際のところ子ども達が
どう思っているか
どう感じているのか
どう願っているのかもわかりません
あくまで、私が気になることです
あなたも、子どもと向き合っている時間に
どんなことを感じていますか?
たまには、言葉にしてみてはいかがでしょうか
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