えっ……?! 大人が“ぐっ”と待つと、子どもが“ぐんっ”と伸びる?

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草原に寝そべっている子どもたちを背景に、タイトルが掲げられている。子供達の笑顔が並んでいるサムネイル やってみたよ!こんな保育

こんにゃちは、猫月です😺

保育中、部屋の隅で子どもが泣いている──
あなたなら、どうしますか?

ナツキ
ナツキ

子どもが泣いていたら心配しますよ!
すぐにそばに行って、
話を聞いてあげないと!!

レツキ
レツキ

状況にもよるんじゃないかしら
友だちのおもちゃが欲しくなって、
思った通りにならなかっただけかもよ?

猫月
猫月

おー、保育士でも対応が変わるみたいだね
どっちが正解というわけじゃないけれど、
私だったら、ちょっと見守るかな?

子どもが泣いていたら、
「心配」と感じるのは当たり前です
でも、「心配」なのは大人の感情──
“子どもにとっての最善” という視点に立つと、
必要な関わり方は場面によって異ってきます

子どもは立派な個人ですから、
「大人が助けるもの」というだけでは、
また敬意に欠けているのです

ナツキ
ナツキ

泣いている子どもを心配したら、
いけないってことですか?

猫月
猫月

心配するのは当然のことだよ
でも、子どもを尊敬しているなら
「自分で立ち直れる」という信頼も大事だよね

「こう関わることが正解」という話ではなくて、
その子の年齢や状況、経緯なども鑑みて、
どんな関わりや見守りが必要か?という視点は、
子どもと向き合う時には大切なものです

今回の記事は、
ときには “子どもに任せる” という選択もあるし、
その瞬間に、子どもは自分の力で伸びていく──
そんな場面を、あなたと一緒に考えていきたいと思います

保育士であれば、倉橋惣三という名前はご存知でしょう
日本において「保育」という言葉を創った人ですね

彼は著書『育ての心』の中でこう述べています

つまり、子どもの自然な発達を信頼し、
内なる成長力を敬う姿勢を強調しています

同じように、
「アドラー心理学」で知られるアルフレッド・アドラーも、
子どもは生まれながらに成長する力を持っていると考えました

大人は、子どもを尊重し、過度に干渉するよりも、
子どもが自ら人生の課題に取り組めるよう援助し、
社会の一員として自立していくことを支える存在であるべき──としました

倉橋もアドラーも、子どもを「育てる」とはせず、
「自ら育つ存在」と捉えています

大人の役割は、
子どもが本来持っている力を十分に発揮できるよう、
そのための環境と信頼を提供すること

子どもは、“成長する力をすでに持っている”
大人がどう関わるかは、その前提に立って考える必要があります

2歳児を保育していたある日のことです

👧「これ、わたしのおなべ!」
👦「ぼくも使いたいの!」

ままごとの鍋をめぐって、
取り合いが始まりました
2人とも感情が激しく出やすいタイプ
🐱💭「これは止めないとまずいかな…」
と立ち上がろうとしたその瞬間——

👦「あ!いちご🍓」
👧「いちご、美味しいよね!」
👦👧「アハハ🎶」

取り合い、まさかの終了

🐱💭「それでいいんかーい?!」
と思わず心の中でツッコミましたが、
子どもの世界では、
しばしばこういうことが起こります

保育をしていると、
こうした子ども同士のやりとりを何度も目にします。
大人はよく「トラブル」と呼びますが、
当人たちは案外そう思っていません

私の感覚では、
初心者ドライバーが
アクセルとブレーキの踏み込みがぎこちないように、
子どもは“感情を出す量”が
不器用なだけなのだと思っています

漫画『エンゼルバンク』(著:三田紀房)に、
「大砲の撃ち方」というエピソードがあります

(※感情が強すぎる=弾が飛びすぎる/弱すぎる=届かないという比喩)

子どもたちもまた、感情表現という“弾道調整”をしながら、
コミュニケーションの距離感を学んでいるのだと感じます。

大人は経験を積んでいるので、
「このくらいの言葉なら伝わるかな?」
という加減を知っています
でも、子どもはこれから身につけていく途中です

だから、極端な感情表現をしている場面で
「もっと優しい言葉で言おうね」と諭したとしても、
その“優しさ”を探るために
感情を全力で使っている最中なので、
アドバイスのようでいて、
少しズレてしまうこともあります

もちろん、取っ組み合いになれば
介入する必要があります
ただ、いつでも止められる距離で見守ることも
また、支援の一つなんです

大人が結果を整えるのではなく、
子どもが“自分で調整する経験”を奪わないようにすることが、
言葉をかけるよりも大切な場面があるのです

保育中、部屋の隅で子どもが泣いている──
あなたなら、どうしますか?

最初に問い掛けましたが、
「子どもは自分で成長する力がある」ならば、
どう関わるのが良いのでしょう?

ナツキはすぐに声をかけたいと言い、
レツキは状況による、
と意見が分かれていましたね

私であれば──
その子のそばには寄り添いますが、
声を掛けるのは留まります

少し話題から逸れますが、
言語聴覚士(ST)から聞いた話です
乳児や障害児の介助をする際、
大人がスプーンに食品を盛ることは手伝う
ただ、口元には持っていっても、
子どもが口にするのを待つことが
とても大切だそうです

「食べたい」と感じること
「食べる」と決めて行動すること
介助=生きる力を発揮する支援には、
主体性の尊重がとても重要なのです

これは保育の様々な場面にも当てはまります
泣いている子がいた時は、
大人は手を差し伸べる姿勢は見せつつも、
「自分で泣き止む」「抱っこを求める」など、
子どもの主体性を見守ることが大事です

子どもが「泣きたい」と感じているなら、
泣きたいだけ泣くのを見守れば良い
自分で泣き止んだり、
抱っこを求めたりする
子どもが判断することこそが大事なのです

ですから、
「いつでも受け止めるよ」と示しながら、
「でも、あなたに任せているよ」という信頼も伝える
その姿勢こそが、
大人と子どものコミュニケーションには不可欠なんです

先程もアドラーの考えを引用しましたが、
アドラー心理学の重要な言葉として
「課題の分離」というものがあります

アドラーは、
「その課題の結果を最終的に引き受けるのは誰か」
を重視しました

たとえば──
・喫煙して健康を害する
・仕事を怠って収入が減る
周囲の人がどんなに心配し、助言したとしても、
その結果を引き受けるのは
行動した本人です

これは、大人でも子どもでも同じです
・わがままに振る舞って友だちとの関係が崩れる
・宿題をサボって成績が下がる
親や先生がどれだけ注意しても、
現実として向き合うことになるのは
“本人の選択の結果”です

私はこの考えを少し言い換えて、こう伝えています
「子どもには、責任を取る“権利”がある」
子どもには
「自分で判断する権利」があるのと同じように、
「判断の結果を受け止める権利」もある のです
(※これはアドラーの概念を同僚向けにした、私の造語です😺)

この考えを裏付ける話として、
工藤勇一先生がこんなエピソードを語られていました

ある講師を学校に招いた際、
「学生にとって必ず価値がある」と確信していました
しかし、工藤先生は“主体的に学ぶ姿勢”を重視していたため、
本来なら「全員出席」としたいところを、
あえて自由参加にしたそうです

その理由はこうでした

「講座を欠席した学生が、受講した学生たちの盛り上がりを見て
“ああ、参加すればよかった…”と後悔する権利もあるからです」

「子どもには、責任を取る権利がある」
という私の考えと一致しています

“責任”という言葉は
重く聞こえるかもしれません
「子どもに責任を取らせるなんて…」
と感じるのも自然です

しかし、現実には、
大人が子どもの責任を肩代わりすることは
不可能なんです

であれば──
子どもの責任から目をそらさず、
その結果と向き合えるよう “そばで支える”
それが、大人の役割ではないでしょうか

教育の目的は、端的にいうと
子どもが大人になった時に「自分で飯を食えること」です

私は「子どもの20年後を考えて保育をする」ことを信条としています
保育で身につけることは、
目先の行動改善ではなく、
生涯に渡って“生きていく力”の基礎となるものです
子どもが成人したあと、
自立した生活ができてこそ、
保育の価値が本当の意味で現れます

今は大人が手を貸せば解決できる課題も、
ここはぐっと堪えて子どもに任せることで、
ぐんっと伸びることは意外と多いのです

転ばないように支えるよりも、
転んでも起き上がれる力を育てることが大事
致命傷を負わない転び方を身につけることも、
人生においては大切な学びです

「心配」という思いは自然な感情ですが、
それはあくまで 大人の軸から見た心配です
保育・子育てでは、
“子どもの軸”に立って関わることを大切にしたいですね

「ただ待つ」ことも、
時には重要な成長の保障だということを、
頭の片隅に置いておいてください

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