私を形作っている物って何だっけ

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徒然と雑談

こんにゃちは、猫月です😸

これまでに
子どもとの向き合い方を語る機会を
何度といただきまして
できる限り伝わるように
お話ししてきました

で、自分でふと思ったんです

「これって、枝葉の話だよね」と

私はリベシティという
オンラインコミュニティに参加しておりますが

リベシティの両学長は
「前提条件が揃っていること」が
大事だと仰っています

会話をする人同士が
同じ情報や知識を共有した上で
建設的な対話が成せるということですね

子どもとの関わり方での
私の根っこの話をしようとすると
この前提条件を知ってもらうためには
たくさんの時間が必要だとも感じています

とは言いつつ
そもそも自分の根っこって何だっけ?
というのが今回のお話です

子どもと向き合うときに
自分が大事にしていること
それは誰に影響されて
どこで学んで
どうやって発揮しているのか

振り返っていきたいと思います

今回も自分語りですが
最後までお付き合いいただけたら嬉しいです

「楽しい」を伝えたい

子どもと一緒に過ごすとき
いちばん大事なことは
「楽しい」を共有することだと思います

子どもの「楽しさ」に
共感することもですそうが

大人自身が楽しんで
その気持ちを伝えることも大事だと思っています

保育をしているときの私は
できるだけ自分が「嫌だった」経験を
子ども達にはさせないように心懸けています

ただ、それだけだと守備一辺倒なんですよね

自分たちが子どもの頃
遊びって大人に教わるよりも
子ども同士で「何してるの?」って
一緒に遊ばせてもらって
覚えたことの方が多いと思います

缶蹴りも
警ドロも
ポコペンも
近所の公園や広場で遊んで
そうやって遊びを広げてきた

今でこそ大人ですけど
遊んでいるときは
でっかい子どもでいたいなーと

以前の話ですが
園庭で子ども達が遊んでいる中で
私だけエアギターを弾いていたことがあります

SHISHAMO『明日も』
園庭の端っこで唄っていたわけですよ

SHISHAMO『明日も』©︎

あ、ちなみに私はギターは全く弾けませんw
だからエアギターなんですけどね🎸

子ども達とはまったく遊んでいないんだけれど
本気で遊んではいる
それを見ていた子たちが
「何やってるのー😆」と笑っている

一曲演奏が終わったら
子ども達は自然と拍手をくれました

そして始まる、エアギター大会

私は、保育園だからと
童謡やキッズソングばかりを聞かせるのは
子どもと対等という環境では
ちょっと違うと考えています

子どもも社会の中で生きているし
その日常で耳にしている楽曲は
大人とほぼ同じはずですよね

だから、保育室に流す音楽は
クラシックやジャズなど
唄う曲もポップスを取り入れることもあります

ブロック遊びもそうですが
大人が本気でレゴやLaQを作ってみせる
「こんなのもできるんだぜー」って
その上で「あなたもできると思ってるよ」と
「こちらの世界へようこそ」と誘うw

遊びは「楽しい」からやるものであって
大人にやらされるものではないでしょう?

たまに「やってみないと楽しさがわからない」
(だから、子どもが乗り気でなくてもやらせるべき)
という意見も耳にしますが
だったら尚更
大人が楽しんでいることが大事なんじゃないでしょうか

通販番組で商品を買いたくなるのは
実際の使い勝手や便利さを見せるからですよね

子どもの遊びを引き出すときも
同様だと思うのです

子どもの意欲の大切さ

田中教育研究所はご存知ですか

心理学の研究結果を
教育現場に応用、実践することを目的とした
民間の研究機関です

毎年「田研セミナー」が開催されているので
参加されたことのある方も
多くいらっしゃるのではないでしょうか

私も職場研修の一環として
参加したことがあります

所長でもある杉原隆教授は
特に幼児の運動能力と保育環境について
長年研究をされていらっしゃいます

その中でも私が衝撃的だったのは
【運動発達を阻害する運動指導】にもあるように
保育で運動指導を行なった場合は
自由に運動遊びを行う子よりも
運動発達が阻害される
という事実です💡

プログラムに則った運動指導よりも
子どもが思うがままに遊んだ方が
運動神経は伸びていく
ということですね

雑にまとめると
大人が専門的な指導をすると
子供の運動神経は悪くなるよ
ってことです😳

「え?専門的に指導した方が伸びるんじゃないの?」

そう思いました?
私もそう思っていました

ところが現実は
大人の指導は子どもの成長の邪魔だったんです😱

要は、子どもが自由に遊ぶ中で
自分の思うがままに身体を動かす方が
想定されていない動作もするので
身体の各部位が使われるので
全般的に運動の発達が進むのです

大人の指導は
プログラムに則った運動しかしません
それに、一生保育だと
子どもには「待たされる」時間が生じます

ジャネーの法則で考えれば
40歳の5分と
5歳児の5分とでは
8倍の量的な差が発生します

大人の感覚で子どもを5分待たせると
子どもにとっては[5×8=40分]相当の
タイムロスなのです

これって、かなり大きな損失だと思いませんか

杉原先生の研究は運動遊びについてですが

私はこの研究結果を参考にすると
そもそも子どもの日常に
大人はできるだけ介在しないことが
重要なのだと考えています

運動遊びでも
砂場遊びでも
ままごとでも
友だちとの関わりでも

子どもが自分で興味を持ち
自分の思った通りにやってみて
「うまくいった!」
「ちょっと違ったぁ」
「全然ダメだ…」
「なら、こうしたらどうかな?」
と、頭脳と身体をフル回転できる
その経験こそが
子どもの発達には重要なのでしょう

私は、子どもの成長は青天井だと思っています
いくらでも伸びていく可能性がある

でも、その成長を遮るものがある
保育・教育とは
子どもの成長を妨げるものを
できるだけ除けていく作業なのではないでしょうか

もちろん、子どもが伸びゆく中で
どうにもうまくいかなくなった時に
「こんな方法があるよ」
「こんな道具があるよ」
「こんな考え方があるよ」と
技術や道具や知識を提供することも大事です

その関わりの中で
「これが正しい」としてしまうと
子どもの意欲を低下させたり
そもそもの興味を削いでしまうことがあります

私たちは学校教育で
先人たちの知識や発見、理論などを譲り受けてきました

ただね?
ヒトがどう発展してきたかというと
それまでの常識を打ち破って進歩してきたんですよ

子どもは
いつか大人を超えてゆく者
私たちの想定なんて
軽く飛び越えてもらわないと困ります

子どもの「やってみたい」は
時に大人からすると
「待て待て待て」と思うことも多いです

でも、やってみないとわからない
これも事実です

まずは子どもの意欲を大事にする
子どもなりのPDCAサイクルが回る
その経験が、行く行く大人になった時に
自由な発想や、人類史に残る発見に繋がるかも知れない

野島千恵子先生の
「子どもは、子どもたちの中で育つ」
という言葉もそうですが

保育の真ん中には常に子どもがいて
大人はその添え物くらいで良いんじゃないかな
と私は思っています

なかなか、難しいんですけどね😅
すーぐ、口も手も出したくなっちゃうから💦

アドラー心理学との出逢い

アドラー心理学との出逢いは衝撃的でした
まさに、雷に撃たれたよう⚡️

アドラー心理学も研修で学んだことですが
これを知っているかどうかで
私の保育士人生は全く違ったものであったはずです

アドラー心理学の詳細については
『嫌われる勇気』や『幸せになる勇気』など
様々な書籍があるので読んでいただくとして

私としては
「課題の分離」
「貢献感」
「共同体感覚」
といった
社会の中での自分の在り方を
考える重要な機会となりました

研修の中で
いくつかの動画を拝見したのですが
YouTubeに上がっているものもあったので
下にリンクを貼っておきます

直接的にアドラー心理学にまつわる動画ではないですが
自分の人生を作っているのは
自分だけじゃないぞ
ということが感じられる動画です
そして、自分も誰かを支えられるようでありたい
とも思わせてくれる動画でした

American Greetings Entertainment
サイボウズ

アドラー心理学を通して
私が最も重要と感じたことのひとつは
「当たり前に感謝をする」です

☝️のふたつの動画は
もしかしたら人によっては
「こんなの、当たり前じゃん🤨」
という話かもしれません

でも、その当たり前をしてくれる人がいるからこそ
私は今、ここにいられるのです
それは、あなたもそうではないですか?

もし、自分が当たり前と思っていることを
相手が「もうやっていられない」と
やめてしまったらどうなるでしょう

当たり前は、当たり前ではないのです

だから、
日常のなんてことのない些細なことに
「ありがとう」を伝える

その関わりが
住みやすいコミュニティには
大事なのだと思います

AI時代への危機感

本屋巡りをしていたときに
1冊の本が目に止まりました

【AI vs. 教科書が読めない子どもたち】(新井紀子©️東洋経済新報社)です

読解力の弱い子供達が増えていることは
承知していましたが
この本を読むと
より具体的な危機感を覚えます

この本の中では
AI技術とはどのようなものか
AI技術の限界とは
AI技術より人間が優るもの
などが解説されています

その上で
本来はAI技術より人間が優っている能力が
昨今、AI技術より劣ってしまう人たちがいる
というものです

AIはあくまでコンピュータですから
演算処理機、要は計算機です
数字に置き換えられるものだけを処理できます

裏返すと
数字に置き換えられないものは
どんなに高性能になっても
処理はできないのです

例えば
カメラや心拍計などを通して
ヒトの感情は計算できるかもしれませんが
AI自体が感情を持つことはありません

自分で考えたって
同じような状況でも
常に同じ反応や感情を持つとは限りませんよね

“シュレディンガーの猫”ではありませんが
AIが感情を発生するためには
不確定な要素が多すぎるのです

ところがですね
新井教授が調査を進めていく中で
AIが苦手とする人間的な作業を
AIよりも苦手とする学生が少なくないことが
わかってきました

その一つの例が
「教科書は読めない子どもたち」です

具体的な事例は
本を読んでいただくとして

私が感じたのは
保育所保育指針でも解説されているように
“非認知能力”の重要性です

非認知能力とは
知能・学力検査などでは
測定できない能力のことです

具体的には
意欲や忍耐力、協調性、自制心など
心や社会性に関係する能力です

こういう力は
大人が与えようと思っても
子どもが身につけられるものではありませんね

他者と関わり
自分の思い通りになる経験や
葛藤する経験などを通して
主体的に生活することで
徐々に徐々に身につけていくものです

それこそ
「これをすれば伸びていく」という
法則があるものでもないですね
子どもはAIとは違うわけですから

教育が抱える課題は把握しつつ
「では、どうするか?」を
子どもと関わりながら試行錯誤していく
日々の遊びや生活、環境構成などを
探っていきたいと思っています

「教育」とは

私の最近のトレンドですね(笑)

工藤勇一さんの数々の著書が
子どもとの関わり方を考えさせてくれます

工藤勇一さんは
新宿区の教育委員会や
千代田区立麹町中学校長などを経て
横浜創英中学・高等学校長に就任されました

現在はフリーランスで
様々なセミナーなど
変わらず教育に携わっておられます

私が工藤さんに大いに共感するのは
それは、大人になってから役に立つの?
という視点です

わかりやすいのは
「話を聞きなさい」なんて指導は本当は間違っている(Wedge Online)
という話ですね

これ、保育園でもやりがちだと思うんですよ

「みんなが喋っているから、先生がお話しできない」とか
「手はおひざだよ」とか
「壁ペッタンでお山座り」とかね…

幼児期に身につける能力は
生涯に渡って使う能力だと
私は考えています

こう言っては何ですが
学校でしか使われない能力は
大人になってから何の役にも立ちません

大人の話を黙って聞かされるとか
全員でいただきますをするとか
決められた時間にトイレへ行くとか

そういうものは
大人になってからは無用の長物です

そもそも
同い年の集団で生活するとか
成人したらあり得ないじゃないですか

よく
「小学生になったら困るから」と
アレコレ教えたがる大人がいますが

工藤先生は
「小1プロブレムなんて日本にしかない」
と仰っていましたが

6歳の子どもを困らせるような環境設定にこそ
問題があるのではないでしょうか?

教員の資質というよりも
日本の教育システムの問題であり
大人たちの子ども感の問題でもあると思います

子どもは、大人と対等の存在です

「教育」は
教えて、育てる
ではないのです

育つのは子ども自身です
大人が育てるなんてことはできません

子どもが
教わり、育つ

あくまで、主語が子どもであることを
心して関われるから
「教育者」を名乗れるのだと
私は考えています

さてさて、今回の話はここでおしまい

子どもと向き合うときに
私としては
難しいことをしようとしているわけでないんです

学んだことを
基本に忠実に
そして「子どもにとって」を大事に
そう考えてあれこれ試しているんですけれど

実際に保育の現場に立つと
それがなかなか伝わらない…

正直、苦々しい思いをすることもあります

でもそれは、お互いが持っている
前提条件のズレから来るものなんですよね

山崎まさよしさんの
『セロリ』の歌詞にもありますが

保育者として育ってきた環境が違うのだから
各々が持っている知識は情報にも違いがある

私が学んできたもの
保育者の責務として感じているもの
子ども達に届けたいもの

まずは、それらが違うことを認識して
どう擦り合わせていくか

その作業を
どれだけ丁寧に行っていけるか
それが大事なのでしょう

ということで
“猫月”を形作っている物のお話しでした

最後までお読みいただき
ありがとうございます♪

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