卒園式で大事にしたいのは、親子の思い出

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「卒園式で大事にしたいのは、親子の思い出」サムネイル。手を繋いだ親子と思い出を示した親子のシルエットが描かれています。 保育の考え方と指針

こんにゃちは、猫月です😺

この記事を書いているのは、新年度も落ち着いてきた5月なのですが、
保育士としては、今後の行事の準備なども着々と進めています。

先々の見通しを持って仕事をしていると、
時にはこんな相談を受けることもあります。

ナツキ
ナツキ

猫月さん……あの、わたし……初めての年長担任なんですけど……
今から、卒園式のことが不安でぇぇぇ……

猫月
猫月

そっかぁ、初めての年長担任だったね
卒園式って、子どもたちにとっても大きなセレモニーだもんね
今から、いろいろ考えちゃうよねぇ

ナツキ
ナツキ

猫さんは、どんな卒園式をしてきたんですか
事前準備もあれこれ必要ですよね……?
教えてください!!

猫月
猫月

うーん、私の経験談はね……
それなりにあるけど……
(もごもご……)

……歯切れが悪いのはですね
私の卒園式って、ちょっと“あっさり”してると思うんです
演出を盛り込んだり、涙を誘う仕掛けをしたり──
そういうことは、あまりしてきませんでした
だから、ナツキにとって参考になるかどうかは、
ちょっと怪しいんですよねぇ…

でも、それでも伝えたいことがあります

それは、「卒園式の主役は子どもたち」であり、
「親子には、親子だけの時間の積み重ねがある」ということ
それは保育士は知り得ない時間です

だからこそ、保育士の演出がその積み重ねを邪魔しないように──
それが、私が卒園式で一番大事にしたいことなんです

今回は、私が考える”卒園式”についてお話ししていきます

卒園式は、たくさんの人が関わる行事ですが、
その“真ん中”にいるのは、言うまでもなく卒園する子どもたちです

私は、卒園式における子どもたちは“主賓”だと考えています
つまり、本来は「迎えられる立場」であり、祝福される存在です

それなのに──その主賓が、何度も何度も練習をさせられるのって
ちょっと不思議じゃありませんか?

大人でたとえるならば、結婚式
花嫁花婿の歩き方が揃っていないからといって、誰かが注意するでしょうか

あるいは、ノーベル賞の授賞式
受賞者に「お辞儀の角度が浅いですよ」とリハーサルを重ねさせるなんて、ちょっと考えにくいですよね

“主賓”とは、その場に招かれ、心から祝われるべき存在です
何かを「披露する」ためではなく、「その場にいるだけで価値がある」とされる人たち

卒園式でも、それは同じではないでしょうか

それなのに、保育園では
“子どもたちがきちんとできるように”という目的で、
くり返しの練習が行われがちです

もしかすると──
「間違えずにできた卒園式」が、
“保育士にとっての達成感”になってしまっているのかもしれません

もちろん、緊張する場での経験や、
ひとつの行事をやり遂げる体験には意味があります
でも、それは「訓練によって整えられた姿」だけを良しとする話ではないはずです

加えて、もうひとつ、
私がずっと気になっていることがあります

卒園式の練習にかけた時間は、本来、子どもたちの時間です
子どもたちは、自分の時間を使って遊び、学び、そして伸びていくはずです

でも、その大切な時間が
「立ち方」「歩き方」「声の出し方」のくり返しになっているとしたら──
その時間に見合うだけの成長を、
私たちは本当に子どもたちに返せているのでしょうか

子どもたちにとっての卒園式は、
「大人の期待に応える日」ではなく、
「ただ純粋に成長を祝ってもらう日」であってほしい

私はそう思っています

保育士として働いていると、
卒園式の準備段階でよく聞く言葉があります

「せっかくだから、保護者を感動させたい」

もちろん、その気持ちはわかります
保護者も、職員も、子どもたちと過ごした月日を思い返し、
「この子たち、よく育ったね」と涙ぐむ場面は
何度見ても胸が熱くなります

でも、私は時々こう思うのです

──もう、十分なんじゃないかな?

数年間、毎日のように送り迎えをして、行事も参観も経験して、
保護者にはすでにたくさんの「感動」があるはずです

だから、あえて卒園式で演出を重ねるのは、
ちょっと“やりすぎ”なのではないかと感じることがあります

たとえるなら、バースデーケーキ🎂

バースデーケーキという、
それだけで嬉しさが満たされるものがすでにあるのに、
「子どもが喜ぶから」と、
その上にアイスを載せて、メープルシロップをかけて、
コットンキャンディーまで盛り盛りにしてしまう

見た目はたしかに華やかになるけれど、
本来のケーキの味って、わからなくなってしまうかもしれません

それは卒園式でも同じことで、
本当に届けたいのは、目の前の子どもたちの姿ではなかったでしょうか

歌や台詞で感動させようとせずとも、
成長した我が子が今ここにいること──
登園時に毎日泣いて、怪我をして熱を出して、悪態もつくようになって、
でも、笑顔で元気に遊び回って、大人も驚く発想をするようになって、
目の前にいる子どもの姿だけで、もう十分に心は揺さぶられるのです

保育士が演出を頑張りすぎると、
「子どもの姿を魅せる」から「子どもを使って演出する」へと、
少しベクトルがずれてしまう

演出を考える前に、まず立ち止まってみたいのです

感動は、演出で引き出すものではなく、
日々の親子の積み重ねの中にすでにある──
私はそう思っています

「卒園制作、そろそろ決めなきゃですね」

運動会も終わった時期になると、こうした話題が出てきます

みんなでひとつの作品を仕上げる──
それは素敵なことですし、子どもたちが集中して取り組む姿には毎年心を打たれます

でも、こんな疑問もあるのです

そもそも、その“卒園制作”の目的はなんでしょうか
・保育園に通っていた足跡?
・在園児へのプレゼント?
・子どもたち自身の記念?

目的がはっきりしないまま、
「毎年やってるから」と惰性で行われていないでしょうか?

制作を通して子どもたちがどんな時間を過ごすか──
そこにこそ意味があると思うのです

「完成度の高い作品」を目指すより、
「みんなで作ったことが楽しかったね」と笑い合える経験を

仮に“完成度”や“見栄え”を重視するなら、
それは本当に“卒園する子どもたち”のためと言えるのでしょうか?

保育士として、ただ残すために“作らせる”のではなく、
「これは私の思い出」と感じられる制作であってほしい──そう思っています

実は、私の園では卒園制作自体をやめています

私自身、以前に「誕生日バッジを、卒園制作でつくろう」という取り組みをしてきました
もしかしたら、プラ板で作成した経験のある方もいらっしゃるかもしれません
私が担任した時は、アイロンビーズで作りましたね

でも、それは150個にのぼる数で──
子どもたちだけで取り組むにはあまりに膨大だったので、
途中から「これはほぼ保育士の作業では……?」という雰囲気になっていました

子どもたちが主体的に「保育園に何かを残したい」という思いがあるならば、
もちろん、それを尊重したいと思います
でも、ただの“保育士側の恒例行事”になっているとしたら
それは考え直すべきかもしれません

卒園制作って、なんのためにやるんだろう?──
そんな話を、保育士同士でもっとしてもいいのではないでしょうか

秋頃には「卒園ソングをどうするか」も話題にのぼります
泣ける系の定番曲が候補に挙がったり、
「うちの園ではこれをずっと使ってる」という“伝統の一曲”があったり

でも、ふと立ち止まってみたくなるのです
──その歌、卒園式でしか歌いませんよね?

年度最後のほんの数日、卒園式のためだけに練習する曲
子どもたちにとって、それはどんな意味があるのでしょう?

もちろん、歌うことが好きな子もいますし、
気持ちをこめて歌詞を覚える体験自体には意味があるかもしれません

でも、「子どもたちのため」というよりも、
「この歌で泣けるから」という理由で選ばれてはいないでしょうか?

もし子どもたちに歌ってほしいのなら──
それは、卒園式だけでなく、
もっと長い時間をかけて親しんできた歌の方が
相応しいのではないかと思うのです

普段の保育の中で何度も歌ってきた歌、
生活の中で子どもたちの心に染みついている歌
そういう歌だからこそ、卒園式の場で改めて歌う意味がある

私は、『もうすぐりっぱな一年生』(作詞作曲:新沢としひこ)を歌ったことがあります

歌の中の「でも だいじょうぶ」というフレーズ
小学校という新たな環境へ飛び込む子どもたちに、
「自分たちならだいじょうぶだよ」と響いてくれたらと願って、
卒園式へこの曲だけ、私の思いとして挟ませてもらいました

ケンカしたり、泣いたり、怪我をしたり熱を出したり、
いろいろなことがあったけれど、
みんなで大きくなって今日を迎えたよね、小学校でもやっていけるよね

子ども同士が、お互いのこれまでの日々をたしかめるような歌です
そして、その声が保護者の方にもしっかり届いていた──
それこそが、歌が「心に残る」ということなのではないでしょうか

卒園式での歌は、“彩り”みたいなもの
これまでの生活と、これからの生活を、そっと輝かせてくれるような

卒園式で唄おうとしているその歌は、
卒園した後も子どもたちの生活に響くものでしょうか?
その日だけの、演出のための一曲になっていないか、振り返りたいのです

卒園式では、在園児が登場する演出が組み込まれることがあります
「お別れの言葉」を届けたり、「花のアーチ」を作って送り出したり

でも、私はふと考えてしまいます。

──それって、本当に在園児の気持ちとして“リアル”なのでしょうか?

3歳や4歳の子どもたちが、卒園児の旅立ちに“別れ”の実感を持てるかどうか
「さよなら」の意味を、どれほど深く受けとめているのか

それよりも、「いつもと違う雰囲気の中で、年長さんがなんかしてる」という、
いわば“お祭り的な体験”として受け取っていることの方が
ずっと多いのではないでしょうか?

それ自体が悪いわけではありません

でも、そこに“演出としての完成度”を求めすぎてしまうと、
在園児にとっては意味が分からないまま立ち位置を与えられ、
ただ台詞を暗記して対応するだけの参加になってしまいます

もちろん、「来年は自分もあそこに立つんだ」と憧れをもつ子もいるかもしれません
でも、その気持ちは、あくまで“その子自身が感じたとき”にこそ意味があるはずで。

大人の中には、これまで自分が経験してきた
「送辞」や「答辞」の概念があります
でもそれは、相応の年齢になった学生だからこそ、できることです
(というか学生の私は「送辞」や「答辞」を意識していただろうか…)

卒園式における「見送りの気持ち」は、
幼児にとって自然に芽生えるものではないと、私は思います

卒園式は、卒園する子どもたちの時間
在園児の参加が“つくりものの感動”にならないように、
その子たちの発達段階や感情に本当に寄り添っているのか──
大人が立ち止まって考えてみても、いいのかもしれません


この記事を最後までお読みいただき、
ありがとうございます

ナツキ
ナツキ

そういう考え方もあるんですねぇ…
卒園式って決まったやり方があるんだと思ってましたぁ
でも、いろいろな方法があるって、ちょっと安心しました

猫月
猫月

そんなことはないよ
私はセレモニーであるなら主賓として子どもたちを迎えるし、
行事であるなら子どもたちが考えて作りあげられるのが、
理想的だと思っているからね

ナツキ
ナツキ

卒園式も、子どもたちを真ん中にした“目的”が大事ってことですよね

形式や演出、準備や練習──卒園式に向けてやることはたくさんあります

でも、その中で忘れてはいけないのは、
「卒園する子どもたちが、どんな時間を過ごせるか」ということです

練習に時間を費やすのであれば、
その中でも子どもたちが何かを感じて、学べる体験になっていたらいいなと思うのです

これは余談ですが──
療育施設にいた時も「修了式」という行事がありました
保育園の子どもたちと同じように、
並んで座り、修了証書を授与されるセレモニーです
でも、発達に障害のある子どもたちには、
一定の時間を座り続けるのは大変なことですし、
証書をもらう作法を覚えるのも困難なことです

ここまで時間と労力をかける必要があるのか、という私の問い掛けに
同僚は『小学校の卒業式でもやるんだから、経験させておかないと』というのです

それは、12歳だからできることであって、目の前にいるのは6歳児です
そして、基本的な生活習慣にさえ大きなリソースを要する子どもに、
多くの時間を費ってセレモニーでの所作を覚えさせたとて、
今後の生涯のどこでこのスキルが活かせるのでしょう?

保育園でもそれは同じだと思います
工藤雄一先生が仰るように、
『社会人になっても使えるスキル』が生きる力につながります

卒園式というセレモニーで大事にしたいのは、
練習で整えられた立ち姿よりも、その子らしさがにじみ出る一瞬
盛られた感動よりも、積み重ねてきた日常の記憶
「こんなに大きくなったね」と微笑みあえる空気
こういったものではないでしょうか

卒園式という時間が、
子どもが自身の成長を“祝福される時間”になっていたら──
それだけで、きっと十分です

そして卒園式では、子どもを使って“感動をつくる”んじゃなくて、
親子で過ごす穏やかな“時間”と、心が通い合う“空間”をつくること──
それが、私たち保育士にできることかもしれません

あなたが準備した卒園式が、
卒園児親子にとって、かけがえのない一日となりますように。

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