こんにゃちは、猫月です😸
みなさんは【人魚姫】の物語はご存知ですか?
子ども達も慣れ親しんでいる
H・C・アンデルセン(Hans Christian Andersen)によるおとぎ話です
絵本や、アニメなどでも描かれる人魚姫ですが
先日、保育園で読み聞かせを耳にしたときに
あ、これって
“自己肯定感”と“承認欲求”の話かも
と思ったのです
「童話から、何を小難しいことを…」
と思われる方が多いかも知れません🤭
まぁ、たまには思い付きの話も良いじゃないですか
ということで
私がどうして【人魚姫】の話が
“自己肯定感”と“承認欲求”だと感じたのか
つらつらとお話ししていきたいと思います
・あらすじ
・人魚姫は天国へ行きたかったの?
・人魚姫は愛を貫いただけ
・「天国」は人間にとってのご褒美
・人魚姫は幸福になったの?
雑談会ですが、お付き合いいただけたら嬉しいです😸
あらすじ
まずは、ざっくりとですが
【人魚姫】のあらすじを追ってみましょう
人魚の王には6人の娘がいました
末の姫は15歳の誕生日に初めて海上の世界を知り
船上にいた人間の王子に一目惚れをしますその夜の嵐で王子の船は難破し
人魚姫は海に投げ出された王子を助けました
温かい浜辺に彼を横たえていると
近くの修道院から出てきた女性が王子を解放したので
そのまま人魚姫は海へ帰っていきました王子と再会したい人魚姫は
海の魔女を訪れます
そして、美しい声と引き換えに
尻尾を人間の足に変える飲み薬を貰います魔女からは
「王子に愛してもらえなければ
お前は海の泡となって消えてしまう」
とも警告されましたが
人魚姫の意思は変わらず薬を飲み干しました浜辺で倒れていた人魚姫は
通り掛かった王子に助けてもらいます
宮殿へ招かれた人魚姫でしたが
王子は彼女が命の恩人だとは気づかなかいのでしたやがて隣国の姫君との縁談が持ち上がります
その姫君が王子を介抱した修道女でした
王子は姫君が運命の人だと
喜んでお妃に迎えるのでした悲嘆に暮れる人魚姫の前に
姉たちが海の魔女に貰ったナイフを届けに現れます
王子の流した返り血を浴びることで
人魚の姿に戻れるという魔女の言葉を添えて…人魚姫は眠っている王子にナイフを構えますが
姫はナイフを遠くの波間へ投げ捨てます
そして、人魚姫は愛する王子の幸福を願い
海に身を投げて泡に姿を変えました結局は王子の愛を得られずに
泡になってしまった人魚姫でしたが
彼女は泡から風の精へと生まれ変わりました戸惑う彼女に精霊が話しかけます
「自分たちは風の精
暑さで苦しむ人に涼しい風を送ったり
花の匂いを振りまいたりしている」
「300年勤め続けることで天国へ行けるんだ」
「あなたも献身さから風の精になれたんだ」生まれ変わった彼女は
妃の額にそっと接吻し
王子に微笑みかけたあと新しい仲間たちとともに
薔薇色の雲の中を飛んでいくのでした
人間の王子に恋をした
人魚姫の悲恋の物語ですね
絵本や紙芝居などには
風の精の段を飛ばして
天使が迎えに来て天国へ旅立つと
いう描かれ方をするものもあります
この結末の描き方に
私は「おや?」と感じたのです
人魚姫は天国へ行きたかったの?
人魚姫が泡になったあと
いずれは天国へ行くという結末
人間であれば
死後に天国へ行くというのは
幸福な結末となるかも知れません
もちろん
個人の宗教観や死生観にもよるのですが
人間ではない人魚たちは
人間のいう「天国」へ行きたいのでしょうか?
アンデルセンの世界観では
人魚や風の精には“魂”が無いとされています
そして魂が無いものは死ぬと泡となって消える
人間には魂があるので天国へ行くことができる
そういう世界観です
人間で考えた時に
例えばキリスト教徒が
自分の目指す天国へ召されるために
日々、厳かに生活をしてきたとして
亡くなったあとに辿り着いたのが
仏教の極楽浄土だったら?
「好いところだから良いか」となるのか
「こんな理不尽があるのか」となるのか
人魚たちには人魚たちの
神や宗教、死生観があるのではないでしょうか
魂が無いから宗教観もないのでしょうか
どちらにせよ
彼らは死後に人間の天国へ行きたいのでしょうか
人間の天国へ行くのは幸せなことなのでしょうか
【人魚姫】の終幕を読んでいると
人魚の王や姉たち
そして人魚姫本人は
人間の天国へ召される結末を
どう思っているのか
私は気になってしまうのです
人魚姫は愛を貫いただけ
これは私の推察ですが
人魚姫は天国へ召されるために生きていたわけではありません
彼女はただひたすらに
愛する王子のために生き続けていたのです
美しい声を捨て
困難な歩行に挑み
喋れないながらも王子の傍にあろうとしました
王子の想い人が
難破から救った自分ではなく
修道女だと知らされた後でも
その隣国の姫と結婚するとなっても
ただただ、王子の幸福を願って生きたのです
そして、彼女の最期は
人魚としての生き直しか
最愛の人の幸福かの
二択でした
人魚として家族と暮らすこともできたのです
その選択肢がありながらも
人魚姫が選んだのは
王子と妃の幸福でした
人魚姫の生き方で
彼女らしくあり続けるのは
最愛の王子の幸福を願うことなのでした
「天国」は人間にとってのご褒美
死後、天国へ行けるというのは
あくまで人間にとってのご褒美です
それだって、宗教観や死生観によって変わるでしょう
私自身は死後の世界に
天国や地獄があると考えていませんし
自分の人生を誰かに価値付けられるのも良しと思いません
自分が満足できる人生ならば十分です
「お前は善く生きた」とか
「お前の苦労は報われる」とか
自分以外の誰かに決められるなんて
真っ平御免です
一所懸命に生きているのは
天国へ行くためではなく
自分が満足する生であるためです
人間の私ですらそう考えるのですから
異種族である人魚は
人間の神に認められる生涯であっても
喜ばしいと思うのでしょうか?
人魚姫は愛する王子のために命を尽くしました
「天国へ行ける」という結末は
人魚の願いではなく
人間からの押し付けだと
私には感じられるのです
だから、【人魚姫】は
“自己肯定”と“承認欲求”の話
だと感じたのです
王子のために生涯を掛けた
それは人魚姫の“自己肯定”
それが「天国へ行ける」と行為と価値付けたのは
人間の“承認欲求”だなと
自分の思うがままに生きただけで
人魚姫には十分だったはずです
死後の出来事まで描き
天へ召されるような筋立てにしたのは
“承認欲求”から来る蛇足のようにも思えます
人魚姫は幸福になったの?
「それは、😸が穿った見方をしているんだよ」
という意見があれば
そうなのかも知れませんね
でも、あなただったらいかがですか?
あなたが亡くなったあとに
あなた以外の誰かが
「一所懸命に生きた人だった」とか
「もっとやれることがあったろう」とか
「不幸な人生だった」とか
そう口にしていると思ったら
なかなか心地が悪いのではないでしょうか?
ところで、人魚姫自身は
「幸せな生涯だった」と思っているのでしょうか
もちろん、【人魚姫】は物語ですから
人間の手によって如何様にも描けるのですが
アンデルセンの描写によれば
転生した際に
王子と妃の結婚を祝福しているので
不満や後悔は無かったのでしょう
彼女の最たる望みは
王子に愛され結婚することでしたが
命を捧げるほどに愛した人の幸福を
見届けられたのは僥倖だったのかも知れません
悲恋の物語とは言いましたけれど
不幸な結末ではなかったのではないでしょうか
まぁ、私自身も
「生きてるだけで丸儲け」と思っていますから
命を絶っているのに
「幸福だった」とは言えないのでしょうけれど
あなたは、人魚姫は
幸福だったと思いますか?
不幸だったと思いますか?
ということで
結論の出ない話はここまでにしましょう(笑)
ふわっとした終わり方になりますが
世間ではひとつの価値がついているものに
自分ならどう感じるか?
と、改めて考えるのも面白いと思います
絵本【ねないこだれだ】の作家
せなけいこさんは
「ねないこはわたし」(文藝春秋)の中で
ご自身はおばけになって飛んでいきたかったと
世間の印象と作品の内容がズレていたことを
お話しされていました
絵本や物語の登場人物は
私たちが印象付いている物とは
違う感覚で生きているのかも知れないのです
私が【人魚姫】を読んだ感想は
天国なんかに召されなくても
彼女の生涯は満足のいくものだったんじゃないかな
と思うのです
だって、自分で決めたように生き抜いたんですから
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